ココロまいるど

武道と瞑想の実践と、お釈迦様の教えから学んだことを、色々なところからヒントを得て記事にしています。

九徳の一

2011.11.03 Thursday 19:31
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    JUGEMテーマ:こころ
     

    寛にして栗・・・寛容(こころひろく)で、しかも、厳慄(きびしい)であること

     

     

    大きなことであれ、小さなことであれ、物事を成し遂げるには、多くの人の助けが必要です。

    成し遂げることは大切なのですが、そのためにあらゆることを自分の思いどおりにしたいと願って、他の人たちを自分の意思に従わせようとしたら、大きな過ちに陥ります。

     

    他の人たちも、それぞれが独立した人間です。各人が自分の意思をもって、大切にしています。そして自分の意思を尊重されないと、不快に思います。ある程度なら我慢のしようもありますが、一事が万事そうであれば、とても耐えられるものではありません。自分の存在そのものを否定されているように思えてきます。

     

    ですから、他の人に助けてもらうためには、相手の意思を尊重し、相手の存在をまず認めなくてはなりません。そうでなければ、「私はここにいてもよいのだ」とならないのです。自分の存在が認められているかどうかは、その者が生きていく上で最も大切なものです。誰かのために自分が存在しているという確信が人を生かしています。誰かのためにという思いが、人々とのつながりや、生きとし生けるものとのつながりへと発展していくのです。人が生きるためには、まず自分の存在が、誰かから認められている、必要とされている、と確信することが大切なのです。

     

    ですから、「私が今こうしていられるのも皆がいてくれているからだ」と自分に関わる人々の存在を、自分から認めることです。

    好ましく思っている人や苦手だと思っている人、嫌いだと思っている人があっても、その人たちの存在を認める心のひろさがあってはじめて、物事を成し遂げる条件が整います。

     

    しかし、存在を認めるだけでは条件が整っただけです。

    個人の意思は大切なのですが、好き勝手をされては無秩序になります。無秩序の中には、自由はありません。無秩序は混沌のなかにあります。秩序が整っていてはじめて、人々は自由が得られるのです。

     

    ですから、上に立つ者は、自分に関わる人々に秩序を与えなくてはなりません。

    物事を成し遂げるために皆で力を合わせようとするとき、各人のやり方があるでしょう。そのやり方が、秩序を乱すものであれば、改めさせなければなりません。相応しくない言動が観られたならば、その誤りを認めさせる機会を与えなければなりません。

    相応しくない者として、その者の存在自体を否定するのではなく、よくないところに自分自身で気づけるように、その者に働きかけるのです。

     

    上に立つものには、その者の存在を認めた上で、よくないところを改めさせる厳しさも大切なのです。また、そうした機会を与えることも、心のひろさになるのです。

     

    心のひろい人物は、分け隔てなく個々人の存在を認め、人々を安心させます。しかも、望ましくない振る舞いに及ぶ者があっても、その者の存在自体を否定するのではなく、相応しくない部分を悔い改める機会を与え、秩序を乱さぬ人を育てる厳しさを備えています。

     

    ※2012年1月28日に一部修正しました。
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