六つの方位が護られている「わたし」が、さらに以下のような人物であれば、名声を得ます。
学識があって、才智があり、戒めをまもり、謙譲で柔和な態度で人に接し、諸事において控えめである。
勇敢で、逆境に陥ってもたじろがず、行為を乱さず、怠ることなく、聡明である。
人々をよくまとめ、友をつくり、寛大で、物惜しみせず、よき指導者である。
また、施しを与えること、親愛の言葉を語ること、人のために尽くすこと、物事を進める際に適切に協同すること、を四つの愛護といいますが、これらの愛護をもって人々と接することを基本的な態度とすれば世の中が円滑に回ります。
逆にこれら四つの愛護を伴った態度で人に接しないならば、六つの方位は栄えないでしょう。たとえば母や父であれば、我が子から本来受けるべき尊敬も扶養も得られないということです。
賢者と言われる人物は、これらの愛護をよく観察するので、偉大となり、賞賛を博するようになるのです。
六つの方位から始まって、名声を得るところまできましたから、再び「わたし」とは何であるかを見直してみましょう。
「わたし」と「あなた」、「わたし」と「彼」、「わたし」と「彼女」、「わたし」と「それ」との間に境界はありません。
「あなた」があって「わたし」があり、「彼」があって「わたし」があり、「彼女」があって「わたし」があり、「それ」があって「わたし」があるのです。
他のもののすべての存在によって「わたし」が護られているから、「わたし」があるのです。
永久不変の「わたし」という確かな存在はありません。
「わたし」の存在は他のものすべてによっているのですから、「わたし」の繁栄は他のものすべてが繁栄することに他なりません。
ですから、人間として「わたし」の義務をなす者は、必ず繁栄することが約束されているのです。
こうして真理探究の修行に励み、ついに真理の智慧を得た「わたし」は、今度は悟りを得た者として、真理に至るよう探究者を導きます。
探究者が誤った道に迷いこまないように、善の心をもって探究者を包み込み、悪い事がらから遠ざけ、善い事がらに関わらせるようにします。探究者が未だ聞いたことのない情報があれば、それを与えて、有用な知識を増やします。また、すでに見聞きしたことがあって知識があるならば、その精度を高めます。このように、真理へ至る道を説き示して、探究者を愛するのです。
このような悟りを得る者によって、四つの行為の汚れを捨てて、四つの仕方で悪い行動をなさず、財を散ずる六つの状況にいないならば、「わたし」は罪悪から離れ、六つの方位が護られます。
逆に次のような人々は親友であると知るべきです。
まずは、助けてくれる友人です。
たとえば、先ほどもすこしふれましたが、無気力なときに身も持ち物も護ってくれる友人や、不安で恐れているときに庇ってくれる友人。
あるいは、「わたし」に、どうしても為さねばならない事が起こったときを考えてください。このような危急の時もかかわらず、手元に資金がないような状況におちいっているとき、十分すぎるほどの資金を提供してくれる友人や、あいにくと友人自身に「わたし」にまわせるお金がないなら、資金の調達の仕方を助言してくれる友人のことです。
次に親友といえるのは、苦しいときにも楽しいときにも同じように一緒にいてくれる友人です。
たとえば、自分自身の秘密を告げてくれる友人や、逆にこちらの秘密をいかなるときにも守ってくれる友人、金銭的な状況などで行き詰まっているときにも見捨てたりしない友人、「わたし」のためには命をも捨ててくれる友人のことです。
また、「わたし」のためを思って話してくれる友人も親友です。
たとえば、悪の道に踏み入れるのを防いでくれる友人や、善の道に導いてくれる友人、「わたし」の知らないことや聞いたことのないことを教えてくれる友人、真理に至る道を説いてくれる友人のことです。
最後に、同情してくれる友人も親友です。
たとえば、「わたし」の衰微を喜ばず、繁栄を喜んでくれる友人や、他人が「わたし」をけなして言うのを聞いたら弁護してくれる友人、逆に「わたし」の事を褒めている人があればさらに広まるよう援護してくれる友人のことです。
これら親友といえる友人は、あたかも母が我が子を慈しむような気持ちでもって、「わたし」に接してくれるのです。
さて、次のような人は、友人と似たようなものですが、実は敵として知るべきです。
品物を選ばず何でもとっていく者や、僅かの物を与えて多くの物を得ようと望んでいる者は、物であれば何でもとっていく人です。
怒られるなど自分に不利な状況に陥って、恐怖が起こったときだけ義務をなす者や、自分の利益のみを追求する者、これらは真心をもって物事をするのではない、言葉だけの人です。
言葉だけの人にはまだまだあります。
過去のことを持ち出して友情を装う者や、未来のことを囁いて友情を装う者、利益になるような美味しいことばかり言ってとりいる者、先延ばしにしてきてぎりぎりになって言い逃れするような者です。
また、甘い言葉を語る人にも要注意です。
たとえば、相手の悪事に同意するくせに、善い事には同意しない者、その人の面前ではお上手を言っておきながら、背後に回れば悪く言う者などです。
ほかにも、放蕩の仲間も友人とはいえません。
お酒など怠惰の原因に耽るときの仲間、晩くに街をぶらつき廻る仲間、お祭など賑やかな集まりがある時に入り込んでくる仲間、賭博などの放蕩に耽る仲間などです。
これら友人をよそおった者どもは、「わたし」を悪の道に導いているのです。
自ら事業を営んでいるならば使用人の、あるいは、会社に勤めているならば部下の、能力に応じて適切な仕事をあてがうことです。
その者にとって簡単すぎる仕事も、難しすぎる仕事も、正当に評価されていないと感じてしまうので、モチベーションが下がってしまいます。
仕事の内容だけではありません。
仕事への対価として相応しい食物や給料を与えることは当然のことです。仕事だけの付き合いだけでなく、時に珍味のものが手に入ったならば分かち与えるなど、ちょっとした楽しみを共にすることも、信頼関係を高めます。
また、経験を積んだ使用人や部下の代わりはいません。
病気になったならば快復を祈って見舞ってやり、ひとりでどうにもならなければ看病もする。そもそも、病気になる前に疲れがたまらぬよう、適当な時に休息させる。それくらい、掛替えのない存在として大切にすることです。
一方、使用人や部下としては、主や上司よりも早く出勤し、最後に仕事場を後にして、自分の仕事をよく成し遂げることです。
給料などは、与えられたもののみを受け取り、それ以上のものを求めず、満足することです。
そして、家族や仲間、知人に、主や上司の名誉と称賛を吹聴することで、そのような素晴らしい人に仕える者として自らの誇りとするのです。
このようにしたならば、「わたし」の主従の方位は護られ、安定し、安心です。
家庭においてのことですが、仕事をする夫と家事を専業とする妻という区別のないこともありますので、ここでは、主に仕事をしている人を「夫」、主に家事をしている人を「妻」とします。
夫と妻との差は、主として何に従事しているかが違うだけであって、家の外での「仕事」と内の「家事」を比較することには意味がありません。どちらが大事で、どちらが尊いものだ、ということはないのです。
ともに、円滑に物事がこなされ、心が満たされてはじめて、日々の生活が豊かになるのです。
そのために、夫は妻に対して、家庭のため、いろいろ尽くしていることを理解し、尊敬することです。
そういう気持ちがあれば、妻に対して荒々しい言葉など遣うことはないでしょう。家事をすることに軽蔑することもないはずです。
夫は、仕事だと言って、外で人倫の道を踏み外さないのは当然のことです。
また、家事においては、妻に権威があり、采配の権利があります。日々の苦労を思い、夫の能力に応じて贈り物をし、感謝をあらわすことです。
一方、妻は、夫の仕事をよく理解し、夫の仕事仲間を良く待遇するなど、仕事が順調に進むよう、手伝うことを厭わないことです。
また、親戚やご近所との付き合いがありますが、これら身内の人々をよく待遇し、困っている者があれば、衣食に不自由のないようにしてあげることです。そうすれば、この地で安穏に暮らせます。
妻も、夫が家にいないことを良いことに、道を踏み外すことなく、無駄遣いをしないことです。
このように、妻は、やらなければならない全ての事柄について、巧みに、そして一所懸命に励むことです。
ここまでしっかりやっていても、夫の仕事がどうなるかわかりません。夫が理不尽にもリストラされたり、事故に遭ったり、病気になって働けなくなることもあります。
たちまち生活に困ることにならないよう、普段からお金を大切にし、貯蓄に励むのです。
このようにしたならば、「わたし」の夫妻の方位は護られ、安全で、安心です。
より良い人生を送るには、多くの物事を学び、指針としなければなりません。
そのための知識と導きを与えてくれるのが、師弟の関係です。
この関係は自分の人生に多大な影響を与えますから、自分を導いてくれる師や先生を慎重に探すことです。そして師事することを決めたならば、徹底的に無私にならねばなりません。
過去をいっぱい詰め込んで、新しいことが入らない状態で入門したところで、本当に必要な如何によい教えであっても、自分に入ってくる訳がないのです。
自分を変えたいという思いがあるならば、それまでの「わたし」を捨て、自分をまっさらにした状態で、師に仕えなければなりません。
弟子として、師への礼を違えず、常に近くに侍し、師の一挙手一投足を逃さぬよう観察し、師の言葉を熱心に聞くのです。
また、学びのための区切られた時間だけでなく、可能な限り普段の生活でも共に過ごすようにすることです。弟子たちを前にした先生としてではなく、ひとりの人間としての師の姿に触れることで、自分の学んだことを師が生活の中でどのように応用しているのか、を知るよい機会が得られます。
これ位の熱意がないと、「わたし」が生まれ変わることは難しいのです。
このように、「わたし」をまっさらにした弟子が仕える師の方も、弟子を導く者としての責任を果たさねばなりません。
弟子に自分の知識を伝え、鍛錬させ、善い心の人間となるよう育て上げるのです。
あらゆる機会を捉えて弟子に教えを意識させることで、教えをしっかりと身につけさせるよう導き、師として知っている限りの知識を弟子に伝えるのです。
師にも自分の人脈があります。友人や朋輩に弟子を褒めることで、弟子のために新しい人々との繋がりを作ってやります。そうした自分の信頼できる人々との関係が、弟子の新しい「わたし」となっていくのです。
とは言え、弟子である以上、師と比べると未熟なものです。師は弟子がどこにいてもそれとなく護ってやらねばなりません。やがて弟子である「わたし」は、新しい人間関係の中で人生を歩み、より自立した人間となっていくのです。
このようにしたならば、「わたし」の師弟の方位は護られ、安全で、安心です。
ここで財産のことが出てきましたので、他の方位に移る前に、蓄財についてお話しましょう。
ところで、蓄えられた財はいかなる仕方で散逸してしまうのでしょうか。
最も陥りやすいのが、飲酒などに耽って飲んだくれになることです。お酒を飲むこと自体は悪いことではありませんが、夜遅くまで街を遊びまわるなど、度を過ごすといけません。
飲酒だけでなく、賭博など怠惰の原因となる物事に熱中すると、他の大切なことを忘れて、どんどん浪費してしまいます。ひどいのになると、財産のみならず妻子まで賭けて、全てを失うこともあります。
怠惰な遊びに耽ること、またそうしたところに連れる悪友に熱中することも、散財する原因です。
また、祭りや舞踊などの楽しい催しものばかり見ていると、そればかりが気になって、仕事もできなくなります。
そもそも怠惰に耽ること自身が、働くことを嫌にし、散財を招くことなのです。
これらのような度を過ごした遊びや怠惰を戒め、何か職業に就き一所懸命に働いたならば、自然と財が集まって積み上あがり、家族を良く養います。
そして、財を四分します。
まず、四分の一の財を自分自身のスキルアップや趣味など自己投資や趣味などに使い、四分の二、つまり財の半分を農耕などの仕事や奉仕活動のために使います。家や自動車のローンもここに入るでしょう。いずれにせよ足るを知ることが基本です。そして残りの四分の一を万が一の窮乏に備えて蓄えるのです。
そうすれば、家族を守るだけでなく、友情を増すことができます。