彊にして義・・・彊力(実行力に富む)にして、しかも、義善(道理をわきまえている)こと
世の中が無事安穏であれば、生きとし生けるものの心は善にあります。
この善の状態を保つためには、なさねばならぬことをなす事が大切です。
こうしたなさねばならぬ事には、大きく分けて、改善修復と未然防止とがあります。
改善修復とは、本来の善の状態から悪い状態に変わりつつあるところを元に戻すことです。できれば、戻すときにもっと相応しい形に修めることです。
未然防止とは、本来の善の状態のままを保つこと、悪の状態にならないように努めることです。
もともと人間は自我が強い生き物ですから、自分の望むように物事を変えようと、身の周りの環境に働きかけます。自分から物事の自然な変化に合わせようとはしません。自然な状態を自分の都合や好みに合わせようとするのです。
この物事を変えようとする自我の働きかけが、本来あるべき自然な状態を損なってしまうのです。
ですから、改善修復や未然防止のためにやるべきことは、つまるところ、人々を欲や怒りの感情のままに動かないように導くことになります。
善の状態が損なわれることや悪に染まることに無関心であっては、変化に気づくことはできません。自分と関わりのある生命の事を我が事として思えるようになると、その生命の小さな変化にも気づくことができます。
生きとし生けるものの事が、我が事として思えるまで慈しみの心を育めば、心が、善にあるか、悪にあるか、わかるようになるのです。
また、人々に慈しみの心が広がるように働きかければ、人間の自我で、物事の自然な変化を損なうことはなくなります。
慈しみの心を育て、自然に従う。
これが、人の行うべき本来の正しい道なのです。
世の中に秩序と調和をもたらす人物は、自らは生きとし生けるものへの慈しみを常に念じ、しかも、心に生きとし生けるものへの慈しみの心を育むよう人々を導きます。
剛にして塞・・・剛毅(意志が強い)で、しかも、塞淵(思慮深い)であること
人は生きていく上で多くの選択をし、さまざまな行動をします。
選択するということは、自分なりの価値観を持っているということです。人は価値観なしに生きることはできません。
ですから、自分にとって魅力的だけれど、他のものにとって善くないことならば、やるべきではありません。
そうしないと、他のものの心を汚してしまうことになるのです。
自分の行動や選択によりどころがないと、自分は正しいことをやっているのだろうか、と不安になりますから、自分なりの行動の規範を設けます。
その規範が、心を汚すものでなければ、自信を持って自分の採るべき行動を選択でき、堂々と実行できます。
心を汚してしまう思考や行為には、次のようなものがあります。
嘘をつくこと。
生命を殺すこと。
与えられていないものを奪うこと。
邪で淫らな行為を行うこと。
中毒性のものに耽ること。
これらのことを考え、行わないことを、自分への戒めとすれば、心は汚れません。
さらに、これらの戒めに加えて、心が清いままでいられる規範や、心がもっと清くなるような規範があれば、自分の善の心が他の人々にも広まります。自分の周りの人々が心穏やかに過ごせるようになるのです。
次に掲げることを自らの行動の規範にすると、自分に関わる人々の心はいつも穏やかにいられるでしょうし、決して揺らぐことのない信頼関係で結ばれるはずです。
与えることが必要だとわかったら自分から与えること。
やさしい言葉をつかうこと。
他のものの役に立つ有意義な行為をすること。
どんな生きものも平等な生命として尊敬し大事にすること。
こうした行動の規範を心掛けていれば、何事に対しても、心を善の状態を保ちながら自信をもって行動することができます。
いついかなるときも戒めを守って心を汚さぬようにし、しかも、言動が思慮深くて心が清い人物であれば、周りの人々の心も汚れず、善き心で満たされます。
簡にして廉・・・簡約(おおまか)で、しかも、廉正(筋道を立てる)であること
物事を成し遂げようとするときに、大局を掴むことは大切です。手をつけることができるのは、「いま、この瞬間」しかありません。効率よく物事を進めるためには、全体を把握した上で、いま何から手をつければよいかの判断がなされないと、うまくいきません。
物事は、時々刻々と変化するので、外部の要因も想定できる範囲にあるとは限りません。不測の事態も十分起こり得ます。ですから、大まかに物事をとらえて、物事を成し遂げる順序を考え、工程を組み立てます。
大まかにとらえるということは、不測の事態にも対応できる柔軟性があるということです。適当でよいということではありません。
物事を成し遂げる順序は、自然に変わろうとする方向です。ちょっとした事でも、実に多くの人や事柄が関わっています。さまざまな力が働いて、いまの姿が現れているのです。
ですから、思いのままに強引に物事を進めると、自然な進み具合に歪みが生じます。関わる人々の理解が得られず、力を合わせることができません。自然な進み方であれば、関わる人々も理解しやすく、納得して協力してくれます。
このように、物事を成し遂げるためには、できるだけ多くの力を合わせて、いまに働きかけるのですが、いま起こっていることが原因となって、結果が現れます。その結果がまた原因となって、次の結果をもたらします。世の中の事象は、この絶え間ない繰り返しです。
望ましい結果をまず見出し、その結果をもたらす原因は何かと探っていきます。それをつないで、いま何をするのがよいかを考えて、選び、実行するのです。ここから、自然と変わりゆく方向を探るのです。
結果と原因がより多く把握できれば、より自然に近いといえます。より多くの結果と原因を包含した状況をつかんでいる、これが大まかということです。
不意に発生したことでも、この範疇での出来事ならば、その原因に気づいていないことはないので、不測の事態にはなりません。多少おどろいて、手間取ることはあっても、お手上げの事態にまでは発展しないのです。
不測の事態に対処する能力を持っている者は、物事を大まかに捉えることに秀でているということです。
物事を成し遂げられる人物は、大まかに捉えることに秀で、しかも、その大まかさから物事の変わりゆく自然の流れを見出します。その筋道で事を運ぶので、関わる者の理解と協力を得ながら、上手に物事を進めていきます。
直にして温・・・正直で、しかも、温和であること。
人を魅きつけるには、信頼関係があることが必要です。
この人は、信頼できる人物だと思ってもらえなければ、人はついてきません。
嘘をつかない人というのは、表裏のない人です。言動が一致しています。自分に表裏なく、正直であることは大切なのですが、自分勝手であってはなりません。
自分のことを思うように、相手のこと、皆のこと、生きとし生けるもののことを思い、その思いに言動が一致していることが、正直であるということです。
そして、相手を思う心には、温かさが感じられ、相手も和やかになります。和やかになれば、そこには調和があります。自他が調和しているということは、自然にあるということです。
見えたもので、人の感情は左右されるということです。
ですから、人と接するときには、和やかな表情で、慈愛の言葉を相手に贈ることが大切です。
それが自然な振る舞いでできれば、人から愛され信頼されます。
人から信頼され魅きつける人物は、生きとし生けるものを慈しむことに正直であり、しかも、和やかな顔で慈愛に満ちた言葉を贈ります。
擾にして毅・・・柔順でしかも果毅(決断力に富む)である。
自然にしたがうことを、秩序があるといいます。自然の移り変わりを観て、自然の声を聴くことで、自然にしたがっているかがわかります。物事のあるがままにしたがい、逆らわないことです。自然の流れにしたがうとき、最も順調で、勢いがあります。自然にしたがうことが、生き物としてのあるべき姿です。
ところが、人間のエゴは、自然のあるがままのすがたを見えなくしてしまいます。人間の思惑は自然に反することが多く、自然を破壊し、秩序を乱し、混沌へと導きます。
人は苦しいことを避けようとし、楽しいことを歓迎します。
呼吸をしていますが、止めればたちまち苦しくなります。疲れて横になったとしても、ずっと起き上がれないようであれば、身体の節々が痛くなるし、床擦れもおこります。喉が乾いたからといって、水を飲みますが、飲みすぎると死んでしまいます。
このように苦しみがまずあって、その苦しみから解放された瞬間だけ楽を感じるものなのです。
楽だからといって、同じことをし続ければ、また苦しくなります。
楽を求めることは仕方のないことですが、楽に執着することは、結局は苦しみになります。
ところが、人は楽を求めつづけます。人が楽しいと自分は損をした気分になって、我も我もと楽を求めるのです。
こうして、多くの人々がそれぞれの楽を求め、自分勝手な振る舞いをし、自然の秩序を乱すのです。
ときには、多くの人々の思惑が同じ方を向くことがあります。社会現象や流行と呼ばれるものです。
多くの人々が同じ方へ進むので、あたかもそれが正しいことのように思われます。
でも、自然の秩序を乱すことならば、たとえそれが多くの人々のよしとしていることであっても、決して褒められることではありません。
誰かが流れを変えなければならないのです。
その者は、多くの人々に対して、あなたたちのよしとしていることは過ちであると言える勇気をもち、大いなる決断力でもって直ちに行動し、自然の営みを回復するよう働きかけます。
このように、混沌とした世の中に、秩序を回復できる人物は、自然の流れに柔順であり、しかも、多くの人々を正しい方向へ導く決断力を備えているのです。
亂にして敬・・・治理(物事に明敏)でしかも、敬慎であること
混沌に秩序をもたらすためには、人々が守るべき規則が必要です。どんな規則にするかは、状況を分析しなければなりません。
人々が平穏に暮らせる社会へと、どのようにすれば導くことができるのでしょうか。
人々は、個々人が独立した存在ですから、各々の価値観も違います。放っておくと、ばらばらの好き勝手に振る舞います。自由を放任すると混沌とした社会になります。ですから、秩序が求められるのです。人々の振る舞いに、秩序をもたらす規則を設けるのです。これを「礼」といいます。礼は、混沌に秩序をもたらすものです。社会に秩序があるならば、礼はいりません。
社会の状況は時々刻々と変化しますから、一度決めたことはすぐに古くなります。いまの状況に合わなくなるのです。ですから、常にいまの状況を観察し、分析しなければなりません。そして、一度決めた規則が今の状況にまだ合っているかを確認することが大切です。古い規則にいつまでもしがみついていては、混沌に秩序をもたらすことはできません。文化礼法にすぐれた社会も旧態依然となり、再び世が乱れた例は、世界の歴史を振り返ればいくらでもあげられます。
秩序を維持するためには、それまで上手く機能していた規則が現在の社会に合わなくなってきている兆を、物事の小さな変化から捉える、鋭い観察と分析の才能が要求されるのです。
しかし、こうした明敏さを身につけているとはいっても、自分の才能に絶対の自信をもってはいけません。自分の才能に自信をもつことは大切ですが、過信はいけないのです。
物事の変化のわずかな兆しは、自分が直接気づくものだけとは限りません。自分では変化に気づいていない物事でも、異なった目線から変化を捉えている人もいます。
そうした声を素直に聞く謙虚さもなければなりません。そのためには、礼にかなった振る舞いで人と接することが不可欠です。自分の言葉に敬いが、行動に慎みがなければ、人は語ってくれず、自分の知りえないことを知る機会を失ってしまうのです。
物事の変化に気づく明敏さを備えた人物が、慎ましさをもって人と接すれば、変化の兆しに気づく機会に恵まれ、新しい安寧秩序を見出すのです。
愿にして恭・・・謹愿(つつましやか)でしかも、供辨(物事をてきぱき処理する)であること
物事を成すときには、多くの人が関わります。いろいろな人がいますから、気の合う人もいれば、合わない人もいます。気が合えば、力も合わせやすく、物事はうまく運びますが、気が合わないと、その人とぶつかり、足を引っ張られたりします。
人とぶつからないためには、一歩引いて、まず相手を立てるようにすることです。
成果主義では、一番をとることや目立つことが良いとされています。
成果には、それに見合った報酬が付きものです。
特に成果主義の人事考課システムでは、成果をあげることと報酬を得ることとがセットになっています。
仕事の成果に見合った報酬がなければ不満を感じますし、成果を上げてより一層の報酬を求めることになります。これは欲の心です。
さらに、相手に遅れをとると、悔しい思いでいっぱいになります。これは、怒りの心です。
欲の心と怒りの心。
成果主義の人事考課システムは、心にとって少しもよいところがない、心が汚れるシステムなのです。
心穏やかに過ごすならば、自分の行為に報酬や見返りを求めないことです。
生きることは、競争ではありません。
生存競争といいますが、自然に競争はありません。
ライオンなどの肉食獣が獲物を狩るときには、体の弱っているものを優先的に選択して狩っているのです。獲物となった草食動物は、集団を生かすため、自分が犠牲になって、死を受け入れます。
母鳥は、ヒナが狙われているのを察知すると、ヒナよりも体が弱ったふりをして、注意をひきつけ、ヒナを生きながらえさせようとします。
犬などにたくさんの子どもが生まれて、母犬の乳をとりあいます。生きる力の弱いものは、乳が得られず、死んでいきます。そうすることで、生きるものがより強く生きられるのです。
より強い子孫の遺伝子を残すために、雄ザルはボスの座を争います。負けた雄ザルは群れから離れます。群れで生活する動物は、個体では長く存在できません。負けた雄ザルにも、遅かれ早かれ死が待ち構えています。
このように自然の中の生命には、種が存続するために生き残るか、死を受け入れるかの選択しかありません。
勝ち負けを争う競争はないのです。
ですから、競争は、モチベーションを高めたり、維持したりするために、人間の世界でだけで行われるものです。
勝負にこだわれば、心は汚れます。心が汚れないようにするには、勝負を楽しめばよいのです。楽しめたという感情を味わうだけです。心を汚してまで勝負にこだわっている者がいれば、勝ちをくれてやればよいのです。
物事を成すときに大切なのは、成果ではなく、段取り良く行うことです。競争の真只中にいては、眼の前のことしか見えません。部分しか見ることができないのです。
ただ、競争することは、物事の進捗に勢いがありますから、結構早くできたりします。でも、エネルギーは無駄に使いますし、心は穏やかでありません。
競争から一歩引いて勝ちを譲れる慎ましやかな人物は、全体を客観的に観るゆとりがあります。しかも、全体を客観的に観ていますから、効率よい手順が分かり、適切に処理します。こうして、この人物のもとでは、あらゆる物事が順調に進むのです。
柔にして立・・・和柔(おだやか)でしかも、しまりがあること
慈しみの心があれば、人と柔和で穏やかに接することができます。慈しみの心にあるためには、嘘を言わない、殺生をしない、与えられた以上のものをとらない、邪な行為をしない、中毒性のものに耽らないことが肝要です。
好きにしてよいと言われると、人は容易に、嘘をついたり、生きものを殺したり、物に執着したり、邪な行為をしたり、お酒やタバコなどの中毒性のあるものに溺れたりします。これらのことは、感覚への刺激が強いので、快感や憎しみなど強烈な感情を抱きやすく、生きているという実感が鮮明になります。よりよく生きることを望み、思いのままに振る舞えば、人の心はどんどん汚れてしまいます。
生きていれば、どうしても、心の汚れを伴うものです。心が汚れないためには、自分の思考や行動に相当厳しくあらねばなりません。「やらない」と自分で戒めたことは、何があっても守る。そこには、例外はありません。冒頭で示した、慈しみの心にあるための五つの「ない」を自戒できる人であれば、心は汚れなくなります。
自戒の人物であるから、慈しみの心にあることができ、人々だけでなく、生きとし生けるものと、柔和で穏やかに接することができるのです。
自律した人物は、心が汚れないように、いつも自分の振る舞いに気づきを入れています。気づきを入れた言動が心を清く保つのです。この清い心に、人々は魅きつけられます。誰でも、汚れているよりか、綺麗な方が好きなのです。
慈しみの心と清い心に魅きつけられた人々は、自律できている人物に憧れ、我もこのような人物になりたいと頑張りだします。少しでも近づこうと、自律自戒している人物を尊敬し生きる手本にするのです。
ですから、心が汚れぬよう自らの言動を戒める人物は、生きとし生けるものを慈しんでいます。その上に、心を清く保つよう自らの言動を律する人物は、慈しみの心へと人々を導きます。
寛にして栗・・・寛容(こころひろく)で、しかも、厳慄(きびしい)であること
大きなことであれ、小さなことであれ、物事を成し遂げるには、多くの人の助けが必要です。
成し遂げることは大切なのですが、そのためにあらゆることを自分の思いどおりにしたいと願って、他の人たちを自分の意思に従わせようとしたら、大きな過ちに陥ります。
他の人たちも、それぞれが独立した人間です。各人が自分の意思をもって、大切にしています。そして自分の意思を尊重されないと、不快に思います。ある程度なら我慢のしようもありますが、一事が万事そうであれば、とても耐えられるものではありません。自分の存在そのものを否定されているように思えてきます。
ですから、他の人に助けてもらうためには、相手の意思を尊重し、相手の存在をまず認めなくてはなりません。そうでなければ、「私はここにいてもよいのだ」とならないのです。自分の存在が認められているかどうかは、その者が生きていく上で最も大切なものです。誰かのために自分が存在しているという確信が人を生かしています。誰かのためにという思いが、人々とのつながりや、生きとし生けるものとのつながりへと発展していくのです。人が生きるためには、まず自分の存在が、誰かから認められている、必要とされている、と確信することが大切なのです。
ですから、「私が今こうしていられるのも皆がいてくれているからだ」と自分に関わる人々の存在を、自分から認めることです。
好ましく思っている人や苦手だと思っている人、嫌いだと思っている人があっても、その人たちの存在を認める心のひろさがあってはじめて、物事を成し遂げる条件が整います。
しかし、存在を認めるだけでは条件が整っただけです。
個人の意思は大切なのですが、好き勝手をされては無秩序になります。無秩序の中には、自由はありません。無秩序は混沌のなかにあります。秩序が整っていてはじめて、人々は自由が得られるのです。
ですから、上に立つ者は、自分に関わる人々に秩序を与えなくてはなりません。
物事を成し遂げるために皆で力を合わせようとするとき、各人のやり方があるでしょう。そのやり方が、秩序を乱すものであれば、改めさせなければなりません。相応しくない言動が観られたならば、その誤りを認めさせる機会を与えなければなりません。
相応しくない者として、その者の存在自体を否定するのではなく、よくないところに自分自身で気づけるように、その者に働きかけるのです。
上に立つものには、その者の存在を認めた上で、よくないところを改めさせる厳しさも大切なのです。また、そうした機会を与えることも、心のひろさになるのです。
心のひろい人物は、分け隔てなく個々人の存在を認め、人々を安心させます。しかも、望ましくない振る舞いに及ぶ者があっても、その者の存在自体を否定するのではなく、相応しくない部分を悔い改める機会を与え、秩序を乱さぬ人を育てる厳しさを備えています。