武道と瞑想の実践と、お釈迦様の教えから学んだことを、色々なところからヒントを得て記事にしています。
自分が自分らしく在ること
2020.10.08 Thursday
22:54
背筋をまっすぐにして座ってください。
目を閉じて、胸の前で合掌してください。
しばらく楽な呼吸を続けてください。
どのような感情になりますか?
穏やか、幸せ、慈しみ、愛おしみなどの善い感情になりませんか?
その感情を覚えておいてください。
さぁ、目を開けて、合わせていたてのひらを少し離してみましょう。
鞠がひとつ入るくらいの間隔で構いません。
そして、利き腕の方のてのひらを「外の世界と接している自分」、反対側のてのひらを「真の自分」としてみます。
「真の自分」とは、何の制約もなく、自由にいられるときの自分です。
一方の、外の世界には、家族や友人、知人、職場の人だけでなく、世間一般というのもあります。
また、人でなくても構いません。
動物や物品、食べ物や建物なども対象にできます。
そのような人や物と接したときに自分がどうであるかをイメージします。
そして、両方のてのひらの空間に意識を集中してください。
ちょうど鞠のある空間です。
「真の自分」と「外向きの外界に接する自分」の間、この空間が「わたし」になります。
さて、私たちは生きていく上で、3つの制約を受けています。
それらは、時間、空間、人間の3つです。
これらのことを「三間(さんげん)」と覚えておくとわかりやすいかもしれません。
そして、先ほどの利き腕のてのひらを「外の世界に接するときの自分」としましたが、この接する対象である三間を変えてみます。
時間は「現在」「過去」「未来」、空間は「環境」「場所」、人間は「真の自分」と「外の世界に接している自分」と考えてみましょう。
例えば、利き腕のてのひらに集中しながら、家族と接しているときの自分を思い描いてください。
まずは、時間を変えていってみましょう。
自分がまだ小さな子どものとき、反抗期に入ったとき、就職したとき、家から独立したときなど、時間を変えてみます。
つぎに、空間です。
学校や自分の部屋、夏休みに家族で泊まった旅館など、空間を変えてみます。
このようにしたとき、両方のてのひらの間に在る「わたし」は、どのように変化しますか?
ひょっとしたら、嫌なことを思い出したときには、てのひらの間隔が広がっているかもしれません。
ひょっとしたら、嬉しいことを思い出したときには、てのひらの間隔が狭まっているかもしれません。
つぎは、対象となる人や物を変えてみてください。
「わたし」というものは、接するものによって、いろいろ変わっていくものだと感じませんか?
全く変わらない永久不変の「わたし」というものはない、ことに気づきましたか?
「わたし」を見ていて、いままで思い通りになっていないことが多いな、と感じていたとしても、「わたし」は変わっていくものだ、と知りました。
であるならば、思い通りの「わたし」にだって、変われるはずです。
このことをまず信じましょう。
さて、いま思いつく三間を決めてください。
そして、両方のてのひらの間にあらわれた「わたし」に集中しましょう。
その「わたし」がどのようであるか、よく観察してください。
その「わたし」のことが気に入らなくても、変えようとせず、ただ観察してください。
観察しながら、両方のてのひらを近づけてみましょう。
優しく、繊細に、どんどん近づけてください。
両方のてのひらが合わさって、合掌のかたちになったら、最初の時に覚えた善い感情で合掌を包んでください。
「わたし」を両方のてのひらで優しく包み、善い感情で満たすようにするのです。
しばらく、その感じを味わってください。
善い感情で満たされたら、合掌を天に向けて持ち上げていき、天空に「わたし」を解き放ってください。
合掌は、「真の自分」と「外の世界に接している自分」が一致しているかたちを象徴しています。
自分に嘘をつかないこと。
自分を慈しむこと。
自分を愛おしむこと。
自分が自分らしく在ることで、ひとは幸せに生きられるのです。
奉仕の大切さ
2020.09.19 Saturday
20:36
この世では、自他の区別なくして生きられません。
それは、なぜなのでしょうか?
この世において自他の区別をつけるのは、奉仕の経験を得るためです。
ここでいう奉仕とは、ボランティア活動に限ったことではありません。
奉仕の経験とは、相手のために、何をなし、何を与え、そのことにより何を得るのか、を経験することです。
まず自分から与えることで得られることや、まず自分からなすことで得られることは、必ず自分をより豊かで幸せにします。
ですから、奉仕することが大切なのです。
奉仕するためには、その対象がなくてはなりません。
ですから、この世では、自他の区別をつけずに存在することはできないのです。
自他の区別をつけるこの世では、主体である自分が客体である相手よりも大切な存在になりがちです。
ですから、普段の生活では自我(エゴ)が育ちやすいのです。
「相手は自分に何をしてくれるのだろうか?」
「相手から自分は何を得られるのだろうか?」
という我欲の意識で、相手からの行為を待っているようであれば、奉仕の経験は得られません。
「相手のために自分は何ができるのだろうか?」
「相手のために自分は何を与えられるのだろうか?」
という奉仕の意識をもち、自らすすんで行動することで、限りない豊かさがもたらされるのです。
あなただけに与えられるご褒美
思いどおりにいかないこともあります。
逆境とも言うべき時期もあります。
そのようなときは、「自分が成長できるときだ」と思うことです。
なぜなら、自分自身でなんとかしなければ、それらを乗り越えることはできないからです。
たとえ、自分の力だけでは困難なことであっても、誰かの助けを借りることができれば、可能になるかもしれません。
このようなときでも、「自分は何もできなかった」と思わなくてよいのです。
なぜなら、ひとに助けを求めたことがあってはじめて、そのひとが力になってくれたのです。
決して、自分として何もしなかったわけではありません。
このように、ひとに自分の弱みを見せることの苦手だった人が、自分を助けて欲しいと言えたことは、その人にとって大きな成長です。
この時点で、自分の限界を一つ超えることができたということです。
端から見れば些細なことであったとしても、気にすることはありません。
一気に、完璧に、やり遂げる必要もありません。
あなたにとってどうなのか、が重要です。
あなたの限界を超えることは、あなたにしかできません。
そして、成長というご褒美は、あなただけに与えられるのです。
やさしい人
2019.07.10 Wednesday
19:37
悩み事や相談事など人の話を聞くことは、大変なことです。
相手は自分を頼って話してくれているわけですから、悪い気がしません。
それで、よかれと思ってアドバイスしたり、自分の知っていることを披露したり、相手に受け入れやすそうな言葉を重ねたりして、相手の負担を少しでも軽くしようとします。
このようにすることが「やさしい人」である、と思いがちです。
ですが、アドバイスやかけた言葉も、結局は自分の考えや思いを押しつけているだけだったりします。
相手の語りを清濁の関係なく、ただ傾聴する。
こうしたことは、聴き容れる人としての器が大きくないとできないことです。
そうして、相手は話しているうちに、自分の中で答えが固まっていくものです。
それが、いまの相手にとって、最善の選択なのです。
そして、相手が自分自身で決めたことを為そうとするとき、何も言わず支えられる人が、本当に「やさしい人」なのです。
面倒くさいことへの対処方法
仕事や地元でなにがしかの役をもたされるなど、面倒くさいことに巻き込まれそうになって、逃れられそうにないなら、さっさと自ら進んで引き受けることです。
そうすることで、主導権を握れます。
巻き込まれるよりも、巻き込む方にまわることです。
面倒くさいことは、誰もがやりたくないことですので、上手にやり遂げられたら、達成感もひとしおです。
しかも、主導権を握っていますので、やらされる場合よりも、スムーズにやり遂げることができるでしょう。
面倒くさいことをやらされて損したなんて思わなくてよいのです。
あなたは全く損などしていません。
損する代わりに、人々からの信頼を得られるのです。
日々精進なのです
欲をもつこと、怒ること、愚かであることは、生きるための原動力とも言えます。
ですから、生きている以上、完全になくすことはできません。
大切なことは、これらのことにとらわれないようにすることです。
とくに、激しい欲や怒り、愚かさにとらわれて、いつまでもこだわって我を忘れてしまわないようにすることです。
我(が)を強く張り過ぎたときに、我を忘れる状態になります。
強い刺激にさらされますと、その刺激以外のことがわからなくなるように、我を張った一面しかみえなくなります。
落ち着いてみれば、我の内にもいろいろな面があるのに忘れてしまうのです。
欲をもつこと、怒ること、愚かであることは、生きるうえで不可避とも言えますので、学ぶべきはこれらの扱い方なのです。
けっして、これらをなくすような努力をしないでください。
そのような努力は、決して満たされることのない欲望であるばかりでなく、さらなる怒りをまねく、愚かな行為です。
自分の内の欲や怒りや愚かさを常に意識してコントロールしていることが大切なのです。
生きていると経験を積んで少しずつ学んでいきます。
これが成長するということです。
同じ成長するなら、効率よく成長したいものです。
しかしながら、自分がよりよく成長するためには、いまの自分よりもよりよく生きようとこころに決め、よりよく生きるよう実践するしかありません。
これを精進といいます。
精進には、より高みを目指すという欲と、凡庸であることへの怒り、愚かなまでの基礎的な鍛錬の繰り返しがなくてはならないのです。
ささやかな楽しみに
2018.08.30 Thursday
19:45
苦しみの本質は、自分の望むようにならないことです。
生きるということは、自分の望むようにならないことに耐えるということです。
ですから、猛烈に求めて得られる特別な出来事だけに幸せが感じられるのではなくて、日常のほんのちょっとした出来事やささやかな楽しみに幸せを見いだせるようになっているのです。
失ってはじめてわかること
失ってはじめてその大きさを知ります。
それから自分が何を得ていたのかや、どこを拠り所にしていたのかがわかるのです。
失うまでは、何事もなく穏やかな日々の中に、いつもあったということです。
ですから、平々凡々とした日であればあるほど、つまらないと思うのではなく、ありがたいと思うこころでいたいものです。
弱さと弱味
2018.05.10 Thursday
22:12
自分に弱さを見せることは、悪いことでも恥ずかしいことでもありません。
自分の弱さを認めることは、勇気のいることです。
ですから、ほかの誰かに自分の弱さを見せられることは、自分に勇気があるということです。
そして、自分の弱いところを鍛えれば、自分が成長しますし、お互いで弱いところを補いあうことができるならば、ひとりではできないようなことも成し遂げられるでしょう。
一方、弱味になりますと、どうなるでしょうか。
人の弱味を握って、利用することは悪いことです。
人の弱味を握る能力は高まるかもしれません。
ですが、これでは、相手が成長することはなく、より傷つけていくばかりです。
力を合わせて、お互いに成長することはありません。
あなたはひとりだけですべてをこなして生きていけることはできないでしょう。
ならば、自分ひとりだけが得をして、成長しても仕方がありませんね。
気持ちに余裕を
2018.04.21 Saturday
00:17
仕事をたくさん抱えて気持ちが一杯になっていて、どうも効率が悪いと感じているならば、いっそのこと、手を休めてみましょう。
そのままやり続けたとしても、効率がよくなることもありませんし、つまらぬミスをしてしまうかもしれません。
このようなときには、仕事を全部やらなければ、と思っていることもあるでしょう。
でも、気持ちに余裕がありませんので、とてもやりきれるものではありません。
ですから、いまのあなたにできる部分だけを、しっかりとやるようにすればよいのです。
できる部分が終わったら、今度はしっかりと休みます。
仕事だけでなく、何事も減り張りが大切です。
できる範囲でしっかりと仕事をして、仕事を忘れてしっかりと休むことで、気分転換にもなり、気持ちに余裕ができるでしょう。
気持ちの余裕を少しずつ増やしていって、調子が出てきたら、勢いに乗ればよいのです。