武道と瞑想の実践と、お釈迦様の教えから学んだことを、色々なところからヒントを得て記事にしています。
そのままで美しい
2015.10.17 Saturday
19:53
自分の内にあって、本性に素直な領域を「自己」といい、この「自己」と自分より「外の世界」との境界にあって、緩衝材的な役割を担っている領域を「自我」といいます。
自分と外の世界には皮膚があったりして、物理的にも境界はわかりやすいのですが、「自己」と「自我」の境界は目に見えるものがなくて、曖昧です。
「自己」と「自我」との違いを見分けるには、それぞれのもつ特徴をよく観察するしかありません。
自分の心に思い描いていることが善にあれば、慈しみの心にありますので、生きとし生けるものとつながって、どこにも偏ることがなく、まるごとひとつになっています。これが「自己」の特徴です。
自分の心に思い描いていることが、自分だけの利益を得ようとしたり、損害を避けようとしたり、あるいは、無関心を装ったりしているようであれば、それらはいずれも物事への強い執着を示しています。これが「自我」の特徴です。
このように、「自己」は自然のはたらきに従い、「自我」は我欲に従っているのです。
わたしたちの意識は騒々しい外の世界と接することで生じているものですから、普段わたしたちが意識できるのは、外の世界との境界になっている「自我」の方です。
わたしたちにとって、このような騒々しさから離れた静かなところにある「自己」を、直接意識することは大変困難なことなのです。
では、どのようにすれば、わたしたちに「自己」の声が聞こえてくるのでしょうか。
それは、大きな声で騒いでいる「自我」に温和しくしてもらい、「自己」の声を聞いてもらうのです。そのために、「自我」の悪を減らし、善を増やすのです。
善が増えれば、執着することが減り、「自我」は大きな声で多くを語らなくなります。
このようにして得られる静寂の中で、「自我」は「自己」の声を聞き取れるようになるのです。
自分の生まれ持った性質や性格を「自己」の声に従いながら発揮して、「自我」が外の世界と関わっていくことは、自然のはたらきに従っていることにもなっています。
感動的な風景に出会うと、「美しい」と感じるでしょう。
そこに生きとし生けるものの秩序があって、ほかに比べようのないものに出会ったときに、人は「美しい」と感じます。
あなたの生まれ持った性質や性格は、あなたに与えられた唯一無二のものです。
ですから、これらを発揮する生き方は、あなただけにしかできません。
そのままのあなたが、ほかに比べようのない、美しい存在なのです。
才能を発揮する
2015.10.08 Thursday
20:34
いかなる天才の者でも、努力して鍛えることなくしては、その天賦の才能をじゅうぶんに発揮できません。
一つのひらめきがあっても、九十九回の努力がなかったら、実行する力量がついていないのです。
自分のことを天才だと思っていない人であっても、努力する決意を持って誠実に実践しつづければ、必ず生来の才能が花開きます。
はじめのうちは、意識して物事の善悪を分別した上で、善い思考や善い行為を選びとることでしょう。物事をよく観察し、不明なところは質問や調べるなどして思索を深め、道理の有無や善悪の区別を明らかにしつつ、真剣に実践をする姿勢が大切です。
まだ学んでいないことがあれば、理解するまで、あきらめないことです。
まだ問いかけていないことがあれば、納得するまで、問うことをやめないことです。
まだ思索しないことがあれば、くたくたに疲れるまで、考えぬくことです。
まだ実践していないことがあれば、とやかく言わず、やり始めることです。
このように努力をつづければ、意志の弱い者も強くなり、自分のことを愚かだと思っている人も必ず自分の才能を発揮できるようになるのです。
歩むべき道
2015.10.01 Thursday
20:37
本音と建て前という言い方がありますが、社会において人と付き合うときには、本当のところの、自分のやりたいことや言いたいことを抑えて、ほかの人に合わせるところもあります。あるいは、自分の本来の目的を隠しておいて、ほかの人を利用して、目的を達成しようとすることもあります。
このような言動に表裏のあるような者は、到底誠実な人物とは言えず、誰からも信頼されないでしょう。
逆に、言動に表と裏のない人物を誠実な人というのです。心に思い描いていることと言動とが一致している人物の立ち居振る舞いに、私たちは誠実さを感じるのです。
仕事上での信頼、親子間での信頼、仲間同士での信頼など、人間関係が円満であるためには信頼が不可欠です。
自らを省みて、善への理解を深め、修行を重ねることが、誠実であることを人に示し、信頼を得るための大道なのです。
人間とは、人と人とのあいだのことです。人に誠実であろうと努力することで、社会の秩序が保たれます。
こうした努力がやがて習慣になって、何の抵抗も苦労も感じることなく実践できるようになれば、「わたし」がもはや主張するところもなく、心おだやかに、自然のはたらきのままに身を任せるようになっているのです。
自然のはたらきに従うように、善にあることの実践を誠実に続けてこそ、生来の才能が明らかになり、発揮できるのです。これは誠実に続けた者だけが至れる境地です。
これが心身を修める根本であり、自然のはたらきに従って生きるために、人間が歩むべき道なのです。
いまここに生きる
2015.09.26 Saturday
18:56
過去のことも、未来のことも、記憶されている情報を呼び出して、再び構築したものであって、過去や未来の出来事そのものではなく、頭の中で作り出した幻影です。
ですから、過去のことにとらわれたり、未来のことに過度の期待や心配を抱いたりすることは、幻影にすがりつく、危うい行為なのです。
過去のことも、未来のことも、それにこだわって、執着する価値などないのです。
よりよく生きるためには、まず過去や未来に跳んでいる思考や想いに気づくことです。
生きることは、「いま」「ここ」でなされることです。「いま」「ここ」に意識を集中することで、過去や未来にこだわっていた自分を変えられます。
「いま」「ここ」に意識を集中する具体的な方法は、自分の行為に気づきを入れることです。
想像してることに気づけば「想像」、思考していることに気づけば「思考」、という様に自分の頭の中での行為に単純な言葉のラベルを貼り付けるのです。
そして、これらの想像や思考だけでなく、自分の呼吸など、あらゆる身体の動作に気づきを入れ続けるのです。これが瞑想の実践です。
さらに、瞑想を実践しつづけますと、以下の八つの効果により、身のまわりに善い影響がでてきます。
一、自分の行動や感覚、心のありようから深い気づきが得られます。
二、客観的に物事を観て、あるがままの真理を発見します。
三、異常な欲望や怒りに執着することがなくなり、慈しみや憐れみの心が養われます。
四、犯したことがない悪をこれからも犯さない努力や犯している悪をこれから犯さない努力、今までに行ったことがないような善をなす努力、いま自分にある善を完成させる努力、を絶やさないようになります。
五、嘘を言わず、誹謗中傷や陰口もせず、無駄話をしなくなりますし、言葉を発するときには、落ち着いて丁寧な言葉を、優しくて楽しい調子でつかいますので、相手の心をおだやかにします。
六、殺生や盗み、よこしまな行為などの相手から奪い去るような罪を犯して生計をたてることをしなくなり、逆に、与えることが必要だと分かったら、見返りを求めず与えるようになります。
七、自分の立ち居振る舞いだけでなく社会全体の無駄がなくなるよう、ほかの誰かの何か役に立つことやためになることを教えてあげたり、親切に指導や助言をしたりして、有意義なことを行うようになります。
八、自分のことにこだわって人のことより優先することなく、平等な生命として、生きとし生けるものを尊敬し、大事にするようになります。
このようにして、「いま」「ここ」に生きることで、より善い方向に自己が成長していくのです。
相手を変えるためには
2015.09.19 Saturday
19:31
たとえば、あなたが心身を修め、相手と区別している意識の垣根を取り去って、まるごとひとつの存在感を持ているとしても、相手が「自分」にこだわって、好き勝手にしているようであれば、つらくなるときもあるでしょう。
道徳的なことで、あるいは、法的なことで問題があるならば、相手の考えや行動を変えようとすることは重要なことです。
ところが、人は、自分の個人的な価値観によって相手を変えようとすることもあります。この場合は、自分の価値観を絶対視することから生じています。自分の見解への執着からその人を変えようとしているのです。
翻って、自分自身を顧みてください。人から干渉されると不愉快であったかと思います。人から変わるように干渉されるのは、それこそ本人にとっては大きなお世話なのです。
ですから、相手を変えようとするよりも、まず自分が変わらないといけません。相手のためにと思っていることが、本当に相手のためになることとは限りません。この世の中で、自分の意志で変えることができるのは自分だけです。その自分のことであっても、癖まで変えることは難しいものです。自分ではない、他人ならばなおさらです。
相手を変えるためには、自分の姿を見せて、その人に変わろうとする意志を持ってもらうしかありません。
いずれにしても、相手を変えようとするならば、その人が憧れるような姿になるまで自分を変えるしかないのです。相手を変えようとするならば、まずは自分からということです。
自分勝手な振る舞いを慎み、礼に違わないようにすることは心身を修めているということです。
嘘や悪口を言わず、色欲を遠ざけて、贅沢をせず、盗みをしないということは、理性を養っているということです。
親しい人の好き嫌いを知り、こころくばりをし、苦労をねぎらい、親切にすることは、人間関係を円満にしているということです。
仕事上では、その者の能力を伸ばすようにし、存分に才能を発揮できるように権限を与え、成果に見合った報奨を与えることは、信頼関係を養っているということです。
友人や知人の窮地を救い、応援し、支援することは、誠実さを養っているということです。
このようなあなたの姿を見ることで、相手がおのずから変わっていくのです。
すべてを自分のこととして
2015.09.16 Wednesday
20:21
興味をもって学ぶことで、知識を増やし深めていく。
努力して怠らないことで、自己の限界を超えていく。
恥を識ることで、心を強くする。
これらのことを、日々に実践していくことで、人間としての器が大きく成長していきます。
これが心身を修めるということです。
まずは一人一人が自己の心身を修めることで、家庭をはじめとする人々が落ち着き、ひいては世の中が平穏になるのです。
このように世の中が平穏になるためのおおもとは、自己の心身を修めるということにあります。
自分以外の人を、尊敬し、慈しみ、思いやり、守ることで自己の心身を修めれば、自分だけという存在感は弱まります。
自分と他人とを隔てていた意識がなくなり、自分と他人の、まるごとすべてが、ひとつになります。
ですから、自分の身のまわりで生じることは、すべて、他人事ではないのです。
執着する心
たとえば、風は、空気の流れです。
花が風に揺られますと、その香りは風に運ばれて、わたしたちの感じるところとなります。
暑い夏の日でも、渓流を通った風は、わたしたちに涼を感じさせます。
このように、流れは触れたものの本性をうつし、運びます。
清流に触れることができても、触れたことで、その清流を汚すようでは、いけません。
では、どのようにすれば触れた流れを清くたもてるのでしょうか。
「わたし」と物事とのかかわりが、自然のはたらきで善い果実を結ぶならば、その流れは清流であるといえます。
「わたし」と物事とのかかわりが、親しい間柄なのか疎遠な間柄なのか、あるいは、「わたし」がその物事をよく知っているのか無知なのか、の区別なく、自然のはたらきは、なされています。
ですから、「わたし」と他のものとの関係はふだんから良好にしておかねばなりません。
流れを清くたもつ方法は、うそをつかないこと、自分に与えられていないものを盗まないこと、生きとしいけるものを殺さないこと、よこしまな行為をしないこと、中毒性のあるものにふけらないこと、以上の五つの戒めを守り、清流が汚れないようにすることです。
人間という生きものは、物事に執着しやすく、心が汚れやすい本性をもっていますから、これら五つの戒めがあるのです。ただ欲望のままに生きていますと、五つの戒めを守るという意識さえ薄弱なものです。
人間は執着しやすい生きものだといいましたが、執着には四種類あります。
欲望に執着すること、習慣やしきたり、儀式や儀礼に執着すること、自分の考えや意見に執着すること、「わたし」という存在に執着すること、以上の四つです。
心に執着が既にあって、清流を汚してしまっているならば、これら四種の執着にとらわれないようにすることで、汚れをなくし、この先も汚れないようにするのです。
ところで、執着にとらわれないようにする、ということは、全く無視することではありません。無視することは、対象を強く意識しているという点で執着していることと同じです。
これらの事柄は、人間関係が円満になる程度には意識して、社会生活を営むほうがよいのです。
礼の役割
2015.08.20 Thursday
08:56
「わたし」のできることは、流転する万物の流れに触れることだけだ、と知ったならば、つぎには、どのようにしたら万物の清き流れに触れることができるか、ということについて考えます。
万物の流れるところ、永遠に変わらない「かたち」というものはなく、始まりと終わりもありません。
あらゆる物事は、人と人、人と物との「あいだ」を時々刻々と変化しながら、進んでいきます。この「あいだ」が適切であって、おだやかでなめらかに流れているところには、秩序があります。
このように、物事の流れに秩序があって、なめらかなところには「礼」があります。混沌としているところに、「礼」というはたらきがあって、秩序が生まれるのです。わたしたちが日常生活の中で言う「礼」は、そのはたらきを文化の中で「かたち」にしたものです。
離れていなければならないお互いの距離が近すぎたり、逆に、近くてよいところが離れすぎていたりしますと、物事はなめらかに流れません。お互いの距離を適切に保つために、「礼」があるのです。
人と人との「あいだ」をみますと、親子、夫婦、兄弟姉妹、上司と部下、先生と生徒、友人などの関係が考えられますが、それぞれに守られるべき文化規範としての「礼」があります。また、そうした現在の文化規範を生み出すにいたった祖先と子孫との「あいだ」や、自然界に存在する万物と人との「あいだ」にも、祭事に代表される「礼」があります。
このように、「わたし」はこの世にひとりで存在するものではなく、人と人、人と物の「あいだ」を適切に保ちながら、お互いが関わり合って存在しているのです。ですから、「わたし」が幸せであるためには、「わたし」は自分の暮らしている社会にあって「礼」を行うことが必要不可欠なのです。
しかしながら、「礼」を行うことにこだわりすぎるのも、「礼」を疎んじるのも「無礼」になります。これらは、儀式や儀礼という言葉を思い起こせばわかりやすいと思いますが、「礼」を行うという「かたち」に執着しているのです。「かたち」への執着から義務感や好悪の感情が生じ、最適な距離感を保つことができず、お互いの関係がぎくしゃくし、秩序がたもてません。
「礼」というものを仰々しく考えず、たとえば暮らしの中で、人から親切にされたら「ありがとう」と言い、人と会えば、「おはようございます」と我から頭を下げればよいのです。
わたしのもの
万物に秩序をもたらすのが自然のはたらきです。自然のはたらきは「もの」ではありませんので、目に見る形をもってはおらず、耳に聞こえる音をたてたりしません。
それでも、太古の昔から人類に共通のこととして、人は畏敬の念をもって自然のはたらきを感じとります。人は自然のはたらきのうちに存在しているのです。
暖かいものは冷めて、冷めたいものは暖かくなります。硬いものはやわらかくなって、やわらかいものは硬くなります。このように物事はうつろうことが本性なのです。
生まれたものは死に向かって老いていきます。この世に永久的に変わらない物事などありません。
莫大な財産を持ち、社会的に名声を得た人物であっても、いまの財産を保有し続けることも、いまの地位や名声を守り続けることも、若さを保ち続けることも、できません。
「わたし」に関わるどのようなことも自己の死とともに終わってしまうのです。
物事に執着することは、失うまいと苦しむだけで、意味のないことです。
これらの物事を「わたしのもの」として考えているから苦しむのです。「わたしのもの」としての実感をより強めて安心しようとし、弱まることを恐れるのです。
物事を所有しているという意識が「わたしのもの」という妄想を生み出しているのです。
手ですくい取った水は指のすき間からこぼれていきます。すくい取った水をいつまでも保ち続けることはできません。ましてや、水のすべてを手に入れることなどできません。
結局のところ、「わたし」は水の流れに触れているだけなのです。
「道」を歩む
自分自身に及ばないところがあれば、それを補うようにたゆまず努力することで、「道」を歩むことができるのです。
このような人物は情にあつく誠実です。言葉が過剰であればあえてそれを言い尽くさず、言葉が不足していれば誤解をまねかないようにそれを補います。言葉を発するときは自分の行動をふり返ってから話し、行動するときは自分の言葉をふり返ってから行うというように、常に自分自身をふり返るという努力を積み重ねていくことで、「道」を踏み外さなくなるのです。
「道」を歩むことに、貴賤や地位の高さは関係ありません。
「道」を歩む者は、自分のおかれた身分や立場、境遇に見合った適切な行動をとります。
豊かに暮らし、地位が高く、貴い身分にある者には、その者にしか果たせない社会的な責務があります。逆に、貧困な境遇にいるとしても、世の中でなすべき自分の役目というものがあります。
「道」を歩む者は、どのような境遇にあっても、自然のはたらきに従って、その場にあった適切な行為をなすだけで、不平不満の気持ちに捕らわれることがないのです。
「道」を歩む者は、自分の振る舞いを省みて行為を改め、他人に要求することもなければ、人を恨むこともありません。
社会的地位が自分より下位の者を侮っていじめたり、上位の者におもねって出世をねらったりすることもありません。
社会を恨む気持ちもなく、他人をとがめる気持ちもありません。
そのため、「道」を歩む者が自分の身に起こったことを受け入れて安楽に暮らすことができる一方で、「道」を踏み外している者は、危険な道とわかっていても世俗の幸せを得ようと一所懸命になるのです。
「道」の歩みは、遠くに行くためにまず一歩を踏み出し、高い場所に上るためにまず低いところから登るようにして、まずは身近で日常的なところから始めます。
ですから、まずはおのれの心身を正しくし、家庭を円満にして、仲良く暮らすことが、「道」を歩むことになるのです。