世の中を平和にするのは国を安定して治めることにある、といいますが、これには国を治める者が国民の心情を推し量って模範を示すことが重要です。
それは、国を治める者が老人を老人として敬えば、国民も自然と親に孝行するようになる、ということです。また、国を治める者が年長者を年長者として敬えば、国民も目上の者に対して従順になり、国を治める者が孤児を哀れんで慈悲を示せば、国民は自然に逆らわなくなるということです。
上司を憎く思うときがあれば、自分が上司の立場にいるときに、同じようには部下を使わないようにします。また、自分の部下を憎く思うときがあれば、自分が部下の立場にいるときに、同じようには上司に仕えないようにします。
前任者を憎く思うときがあれば、自分はそのようなやり方で後任に接しないようにします。また、後任の人を憎く思うときには、自分はそのようなやり方で前任者に当たらないようにします。
このように、右の者の不善を憎めば、その不善を左の者にはしないようにし、左の者の不善を憎めば、その不善を右の者にしないようにすることを、人格者の行いというのです。
国を治める有力者こそ、慎まなければなりません。この道を踏み外して偏れば、世の中に害を与えて歴史に汚名を残すことになります。国民の心を得れば国は治まりますが、国民の心を失ってしまえば国は滅亡してしまいます。
そのため、国を治める者は、まず人格者として人間の器を大きくし、その大きさを保つように慎むのです。人間としての器の大きい人物であれば、民が服します。民が服すれば、土地も増えます。土地が増えれば税収が増え、財貨も増えます。人間としての器の大きさがおおもとであって、財はその結果であり、末節です。おおもとである人格形成を軽んじて、末節である財力を重視すれば、民を争いあわせて、奪いあいをさせる悲劇となります。
重税を取り立てて、財が国を治める者に集まれば、民は離散してしまいますが、税を軽くして、国を治める者の財が少なくなるようにすれば、民は国に集まるようになるのです。
また、道理に反するような発言をすれば、民も同じように道理に反するような言動をするようになります。道理に反するような方法で財を得た者は、道理にそむく出来事によって財を失ってしまうのです。
世の中のあらゆるものは変化しています。国の統治者もその例外ではありません。統治者が善を行っていれば支配力を得ますが、不善を行うようになれば脆くも支配力を失ってしまうのです。宝石や貴金属をもって宝とするのではなく、人間としての器の大きい、善なる人物をもって宝とするのです。他人の不幸を好機とするのではなく、親に思いやりや慈しみ、孝行をつくしている姿を示せることが、人々の上に立つ者の資格なのです。
心が穏やかで落ち着いており寛容な人物がいれば、特別な技量がなかったとしても、真心を持って登用する度量が、国を治めるの者には大事です。このような人物に仕えてもらえれば、国は豊かになり、子孫と万民の幸福と安寧が保たれることになります。
賢人を見ても登用することができず、登用してもこれを活用することをしていなければ、国を治める者の怠慢です。不善を見ても、退けて遠くに追い払うことをしていなければ、国を治める者の過失です。
国民が憎んでいることを好んで行い、国民が好んでいることを嫌って行わないのは、人間の本性や道義にもとる振る舞いです。このような振る舞いばかりをしていますと、災いが必ずその身に及ぶことになります。
人々が、ともに栄える道を歩んで誠実であれば、世の中はよく治まりますが、傲慢になってわがまま放題であれば、必ず世の中は乱れることになります。
働いて財を生産する者を多くして、財を消費する者を少なくし、生産する者は速やかに仕事に取りかかり、消費をする者は緩やかに財を消費すれば、財政が不足するということはありません。これが国の財政を豊かにする大道です。
皆とともに生きようとする情け深い者は、財があれば寄附や施しにつとめますが、我が一番で生きようとする者は、己のみが豊かに暮らすため、貪欲に財を集め続けます。
国家の財政につとめる身分にありながら、国民から搾取して私腹を肥やそうとする輩が身分の低い者にもいます。身分の低い者ほど弱者から搾取します。そういった輩を採用して国家の要職を任せれば、人災とも言うべき様々な災いや不幸が起こってきます。こうなると、いくら善人がいようとも、どうしようもありません。
国を治め世の中を平和にする道は、国を治める者が、私的な利益でなく、国民に対する人道を守り、慈しむことをもって自分の利益とすることにあるのです。
国や会社などの組織を治めるには、まずその家をととのえなければなりません。自分の家庭でさえ教え導くことができないのに、家庭以上の組織を統治して教え導くことなどとてもできません。まず自らの身を修め家庭をととのえることで得た「人間としての器」から、国や会社などの組織を教え導くことがはじまるのです。このことは、親への孝行が組織の長に仕える忠誠につながり、兄への情が厚いことが年長者へ従順に仕えることにつながり、子や弟への深い愛情が国民や社員への慈しみや恵みにつながっている、ということです。
子育てについて勉強して蓄えた知識が、赤子の気持ちを明らかにするわけではありません。母親が真心をもって赤子の気持ちを知ろうと求めれば、当たらずとも遠からずわかるものです。国を治める者が国民を愛することは、慈母が赤子を保つようなものです。国を治める者の家が思いやりをもってともに生活しているような家庭であれば、それに感化されて国中に思いやりをもってともに生きようとする気風がおこり、国を治める者の家が譲りあい与えあって生活しているような家庭であれば、国もこれに影響されてお互いが譲りあい控えめに生きようとなるものです。
逆に、国を治める者が私利私欲をむさぼって暴虐であれば、国中が乱れて反乱が起こるのです。一言の失言が事業を台無しにし、一人の正しい行いが国を安定させるに至ります。
これが国を治めるということです。
歴史を振り返ってみても、法令で命じている規範と、暴君自身が好んでやっている悪事や暴虐があまりにも矛盾していますと、国民は法令に従わず好き勝手にやるようになってしまっています。国を治める者が思いやりと譲りあいの精神をもって、ともに生きることを自ら実践してはじめて、国民もそれに倣うのです。
また、自分自身に貪欲や暴虐の悪にないことを示してのち、国民の貪欲や暴虐の悪事を批難し取り締まるのです。自分に思いやりがないならば、国民を諭すことはできません。自分自身に「人間としての器」がなく、規範も守らないのに、国民に道徳や秩序を強制するような矛盾が受け入れられた統治者などおりません。そのため、国を治めようとすれば、まず自分の身を修め家をととのえなければならないのです。
国を治める者が家族にも兄弟姉妹にも優しく接することで、国の優秀な人材を教え導くことができるのです。国を治める者が儀礼に違わないことで四方の国を正すことができるのです。親に慈しみを、子どもに孝行を、年上の者に友愛を、年下の者に慎み深さを守らせることで、国を治める者は国民に家をととのえる意識を持たせることができます。このことが、国を治めるのはまずその家をととのえることにある、ということなのです。
家庭をととのえるには、自分の身を修めることが基礎となるのですが、人は親しい者や愛する者の所に行けば、愛欲や情けにおぼれてしまいます。いやしんでいる者や憎んでいる者の所に行けば、差別したり蔑んだりしてしまいます。敬服する者の所に行けば、はばかったり媚びたりしてしまいます。哀れむべき者の所に行けば、同情しすぎてしまいます。傲慢で怠惰な者の所に行けば、安楽に流されてしまいます。
そのため、好んでいる相手であってもその悪いところを知り、嫌っている相手であってもその善いところを知ることができる者は、世の中に少ないのです。自分自身の善いところと悪いところを知り、身を修めた者は、人との関わりあいのなかでも偏りがないので、家庭がととのうのです。
上に立つ者として人々の訴えを聴いて裁断を下すときには、自分もまたほかの人たちと同じような人間なのだ、と思うことです。それよりも大切なことは、情けもなく誠意もない者が虚偽のことばを弄さなくなるようにすることです。そうすれば、人々は上に立つ者のすぐれた品性を敬服するようになり、訴えること、そのこと自体がなくなるでしょう。
世の中の平和を望む者は、まずその国や会社といった自分の属する社会組織をよく治めることです。社会組織を治めたいという者は、まず自分の家族を整えることです。家族を整えたいという者は、まず自分自身の振る舞いを修めることです。
このように我が身を修めたいという者は、まず自分の心を正しくすることです。自分の心を正しくしようとする者は、まず自分の意志を誠実にすることです。自分の意志を誠実にしようとする者は、まず自分の智慧を高めようとすることです。智慧を高めるとは、生きるという行為のうちに自然の摂理を理解するということにあります。
生きるという行為のうちに自然の摂理を理解することで、智慧を得ます。智慧を得て、意志が誠実になります。
意志が誠実になって、心が正しくなります。心が正しくなって、我が身が修まります。我が身が修まって、家庭が整います。家庭が整って、社会組織が治まります。社会組織が治まって、世の中が平和になります。
国を治める者から庶民に至るまで、万人ただ修身をもって基本とします。おおもとの修身が乱れていて、世の中が治まったという例はありません。家庭を顧みず、我(が)を強く欲深くあって、家庭や国がうまく治まって平和になったという事例は、いまだかつてないことなのです。
自分に厳しくし、自分本来の「人間としての器の大きさ」を明らかにするのです。