あなたの身に起こっていることは、あなたのほかに誰も知りようがありません。
その瞬間に得た感覚から、どんな感情をもち、どう考え、何を学ぶかは、あなた自身のことなのです。
ですから、あなたにとってよいこと悪いことのどちらも、あなた自身に原因があるのです。
ところが、自分のことだという気づきがなければ、原因を外に求めてしまいます。
たとえば、あなたが猫を嫌いだとします。
猫がすり寄ってきたら、「近寄るな」といって、払いのけることでしょう。
うっとうしいのです。
たとえば、あなたが猫を好きだとします。
猫がすり寄ってきたら、「かわいいね」といって、なでてやることでしょう。
いとおしいのです。
でも、忙しくしていて手が離せないときなら、「いまは駄目」といって、払いのける動作をするでしょう。
その場合でも、忙しさで自分の余裕がないなら、いらだって、きつく払いのけるでしょう。ところが、忙しいけど余裕があれば、おだやかに、さとすように払いのけるでしょう。
あなたが手を動かした原因はどこにありますか。
猫に原因がありますか。
猫はあなたに近づいてきているだけです。
あなたが猫を見て、あなたが猫のすり寄ってくるのを感じ、あなたに感情が生じ、あなたが手を動かしているのです。
それでもなお、あなたは自分の行った動作の原因を猫のせいにするかもしれません。
では、そばにいる猫を、あなたが見なかったら、感じなかったら、あなたの手を動かす動作はありましたか。
このように、全ての感覚や感情、思考、意志、動作は、あなたが原因であり、あなたが基準になっているのです。
あなた自身に基準があって、自分のものと思っているから、自分の感覚や感情、思考、意志、動作として、あなたは確かな信頼をもっているのではありませんか。
「私は確かに見た」「私は確かに感じた」「私は確かにうっとうしく思った」「私は確かにかわいいと思った」「私は確かに手を動かして払いのけた」
確かに自分のことです。
ところで、これらのうち、「心」といえる部分はどこでしょうか。
感じて、思うところを「心」といえそうです。
この「心」が、それに続く動作を決めているのです。
さっきの猫の例にもあるように、心がいらだっていれば、きつい動作になりますし、心が穏やかであれば、やさしい動作になります。
やさしい動作をしてもらったら、猫も心地よいものです。
やさしく思いやる動作をすれば、雰囲気がよくなります。
雰囲気がよくなれば、それを感じとり、あなたの心も穏やかでいられます。
ですから、あなたの心がやさしさと思いやりに満ち、穏やかであれば、それは、あなた自身が原因なのです。
同じように、あなたの心がいかりといらだちで乱れているのも、あなた自身が原因なのです。
このことを理解すれば、原因を外に求めたりはしないのです。
たとえ一瞬でも、すぐれたことを成し遂げたと思えれば、気持ちのよいものです。
すぐれたことが、あなた自身が思っていた以上であれば、自己満足感です。すぐれたことが、あなたのライバルなどと比べたものであれば、優越感になります。
自己満足感や優越感は感じていて気持ちよく、いつまでも執着してしまいます。この執着が過ぎると外向きには自慢となって、内向きにはうぬぼれとなります。
確かに、その部分では人より能力的にすぐれているものですから、人の上に立っている世界観を創ります。そして、あなたは人より偉いと錯覚してしまうのです。
あなたは自分の偉いところにしか目がいかなくなりますので、自分の自慢できる部分だけで人と比較して、優越感と満足感を得るのです。
逆に、あなたは自分のできないところが見えなくなります。あなたのできないことをできる人もいるのに、目に入りません。
やがて、人に頼らなくても、自分ひとりで生きていけると思うようになるのです。
でも、この世で他から完全に独立して存在できるものなどあるでしょうか。
少し考えてみましょう。
あなたが食べている食べ物は、あなた自身が作ったものですか。
あなたが着ている服は、あなた自身が作ったものですか。
あなたが住んでいる家は、あなた自身が建てたものですか。
これらが仕上がるまでの材料を用意するのも、加工も、運搬も、あなたがしましたか。
自分ひとりで何でもできると言い切れますか。
人はひとりでは生きていられません。
他の多くの人に助けてもらって、何とか生きているのです。
あなたのできないことを、してくれる人がいるから、あなたはいまの生活ができているのです。
このように、自分が生きているのも、自分以外の人や生きものがあってのことだと知れば、 自然と感謝するようになるのです。そこにうぬぼれはありません。
あなたは、誰のために仕事をしていますか。
自分のことより他のものを気遣う心をもって、自分の仕事が誰かの役に立つことを願って仕事をする。
ここに仕事の喜びがあれば、その人は幸福で善の心に満ちています。
そして、仕事をしてもらった人も、その心を知っています。
はやりのものを人が持っていますと、自分も欲しくなるものです。
ところで、それは本当にあなたに必要なものですか。
手に入れるのが困難なものをもっていたり、人よりたくさんもっていたりしますと、あなたは、自分が人よりすぐれた存在だ、と満足して気分がよくなります。
でも、その満足は人からの賞賛がある期間だけです。
本当は必要でないものですから、その後、これらのものが有効に使われることはありません。
この根本にあるのは、人よりすぐれていると見られたいという自己満足であって、これらのものがあなた自身の生きていく上で絶対必要だからではないのです。
欲はいけないものだといわれますと、極端な人は、欲のすべてをなくそうとしますが、生きていく上で必要最小限のものを得ようとする欲は、自らの生存に関わる欲ですので、なかったら死んでしまいます。
まずなくさなければならないのは、あなたの考えをおし通そうとする欲や、食べ物などの物をむさぼろうとする欲です。
このような欲は満たされると気持ちがよいものですから、執着してしまうのです。
「もっと、もっと」という気持ちを伴う欲は、あなたが生きていく上で、余計なものだと気づくことが大切です。
これらはもともと自分にとっていらないものなのです。
ですから、「もっと、もっと」で得られるものは、他のものと分かち合えるものだと気づかねばなりません。
あなたが自分の「もっと」に気づけるということは、その部分を他のものと分かち合える機会に恵まれた、ということです。
これは、あなたの欲を慈しみの心に変える機会が与えられた、ということなのです。
そして「もっと」の部分を他のものと分かち合えば、あなたは善の心を育てているのです。
「もっと」の欲をなくそうとするのではなく、その欲に気づき、慈悲と慈愛の心に変える機会とするのです。
これを繰り返せば、あなたから自然に「もっと」の欲はなくなり、慈しみの心が現れるようになります。
「もっと」の欲がなくなれば、選り好みすることもありません。
そしていつの間にかあなたは、常に慈しみの心にあふれた人間になっています。
やらねばならないと思うだけで、やらないのは、だらしないだけです。
後回しにする。楽な方を選ぶ。周りに流される。何もしない。
これらの姿勢で物事にあたっているならば、成功をつかむためのベストなタイミングをいつも逃しています。しまった、と思って後悔するなら、まだましかもしれません。こういうことを悪いとも思わない人だっているのです。
「いまする」が正しいことであると判断したら、すぐにやる。
これができるためには、正しいことであると判断できる、善の心の状態になければなりません。
人のために何か役に立てることはないかを考え、愛情に満ちたやさしい態度で接し、与えるべきときに自らの体力や技術、能力、知識を分け隔てなく平等に与えること。
このことを実践すれば、心は善にあります。
物事を成し遂げるには、それなりのリスクを伴います。でも、リスクを取らないと成功はありえません。
リスクをとれるのは誰でしょうか。
当然ながら、力と時機が及ばず、失敗することもあるでしょう。しかし、そこには失敗から学ぶことがあります。失敗のリスクをとることがなければ、その学びもありませんから、成長もありません。
人にリスクをとらせて、自分は、のほほんとしているつもりですか。
リスクをとって、自分の成長にチャレンジすることは、あなた以外の誰にもできないことです。勇気をだしてリスクをとることは、あなたにとってとても有意義なことなのです。
成功しても、失敗しても、その先にあるのは、今より成長したあなたです。
そこに後悔はありません。
殺生をすること。盗みをすること。嘘を言うこと。よこしまな行為をすること。中毒になるものにふけること。
これらはどうしてやっては、いけないのでしょう。
いけないと知りつつ、やってしまったことはありませんか。
そのとき、誰に対して、いけない、と思ったのでしょう。
やってしまったあとの感情はどうでしたか。
すぐに忘れることができましたか。
やってはいけないと知りつつやったことがありますと、人にばれないだろうか、悟られはしないかと、常に不安で、心配を抱え、落ち着きません。
うっぷんがたまって、不満を感じていますと、そうした感情がなくならないことに、常に怒りを覚えてしまいます。
物事に対するこだわりや執着がありますと、常に満たされない思いを抱えていて、落ち着きがありません。
先に挙げた五つの行為は、いつまでも心を曇らし続ける感情の雲を沸き立たせます。
このように、心を曇らせる感情を抱えていますと、いつも心は騒がしく、落ち着くことがありません。欲や怒りの感情がなければ、こだわることもなく、執着することもなく、満足しています。心に捕らわれるところがありませんので、思考が停止し、静寂が訪れます。
太陽の光は、雲がなければ、そのまま大地を照らします。太陽の光の持つエネルギーがそのまま大地に降り注ぎます。
五感に感じる感覚を太陽の光にたとえますと、心を曇らせる感情という雲に遮られて、心という大地に到達するころには、本来の明るさより暗く、色あせ、冷めたものとなっています。
ですから、感情という雲をなくし、本来のエネルギーが心に降り注ぐようにするのです。
そのとき、自分の内と外もなく、エネルギーが均しくなり自然と一体になっています。
他の人やものの役に立とうとしても、あなたにとって、状況はいつもよいものであるとは限りません。困難な状況や不利な立場に立たされることもあります。
しかし、やることはやらねばなりません。
このようなときはつらくて苦しいものです。このような状況がいつまでも続くのかと思ってしまいます。
でも、本当にいつまでも続くのでしょうか。
困難な状況を取り巻く諸々の物事は変化しています。いつまでも同じ困難な状況が続くことはありません。
助けてくれる人が現れたりするかもしれませんし、困難な状況に何度もチャレンジするうちに、あなたも必要な体力や技術、能力、知識を身につけます。
このように、あなた自身も周囲の状況も変わります。
やがて困難な状況を乗り越えられる条件が整って、解決してしまいます。
ですが、大切なことがひとつあります。それは、自分を変える努力はしないといけない、ということです。
他の力を頼み、ただ待っているだけでは、困難な状況を乗り越えるだけの変化は起こりません。力がつかないのです。
困難な状況につらくて苦しい思いをしながらも、それに耐える。
耐えながら自分を鍛えて変えていく。
そうすれば、あなたはやがて困難な状況を乗り越えられます。
その先は新しい世界です。
欲が満たされないと不満になります。すぐに怒りの感情が出てきます。
文字どおり怒ることのほか、満たされない悲しみも怒りの一種です。すでに不満であれば、不満を解消するために行動します。不満な状態になりそうなら、そうならないように行動します。
ところが、激しい言葉で相手を従わせようとすると、相手を傷つけてしまいます。強い言葉で相手を従わせようとすると、ますます従わなくなります。しかも悪いことに、強くて激しい言葉や行為を受けて、相手も変わってしまいます。
よい方向に変わると思いますか。
怒りから生じる言葉や行動は、自分は当然こうであるべきだという自我が強く、周りの全てを支配しようとするものです。その支配の方向が外に向いていれば、他のものを攻撃することになり、内に向いていれば、自分自身を責めることになります。
あなたが、自分という存在を守るため、あるいはより快適に生きるためにとった行動は、すべて、自分と他のものとの間に明確な境界線を引くものです。自分の境界線の枠を広げるために外のものを排除するか、自分の境界線の内側に外側のものを取り込もうとするのです。
そして、うまくいかなかったら、自分を責めることしかできなくなります。どれだけ外に広げようとも、内に取り込もうとも、怒りの感情は自他を区別することなくしては成り立ちません。
この区別をなくしてみませんか。
境界線を引かないこともできるのです。
区別をなくすことは簡単なことです。境界線の向こう側にいる相手のことを考えればよいのです。相手の長所や短所、あなたの気に入る、気に入らないに関係なく、相手の「あるがまま」を受け入れるだけです。
相手を受け入れるところに怒りはありません。
受け入れるときには相手をつつむような広い心になっているので、相手もあなたのやさしさを感じています。相手に感謝されると、こちらも気分が良くなります。
結果的に、みんながよりよく生きられるのです。
相手の役に立つことを考えて行動するときには、人は慈しみの心にあります。自他の区別はなくなり、全てが「我がこと」となります。ですから不満もありません。相手のことを含めて全ては自分のことであると理解していますから、言葉と行動は思いやりがあってやさしく和やでいられるのです。
欲、つまり「まだ足りない」という思いで行動すれば、「もっともっと」と満足することはありません。
欲には常に満たしたい対象があり、その対象が得られれば、次の対象が必要になるのです。
欲を満たす行為が積極的だと略奪になり、消極的だとおねだりになります。
どちらにしても満足していないのです。
欲を満たしたときに、獲得した物を観察してみましょう。
その質や量は、あなたが生きていく上で必要最小限のものでしょうか。
自分の取り分はこれだけで十分ですと、はっきり言えますか。
その分量は、あなたよりもっと苦しんでいる人がいたら、まだ分けてあげられる量ですか。
あなたが生きていく上で、これ以上どうしても減らせない量ですか。
食欲や睡眠欲など、生命を維持するために生じる欲がありますが、これらはないと生きていられませんので、生物として否定するべきではありません。
自然は生きているものの世界ですので、生命体として最小限のものを得る生活をしていることは自然のうちにあります。同じように、他の生きものも最小限のもので生命を維持しているのです。このように私たちの自然は成り立っています。
必要最小限以上の量であっても、思いもよらず手に入った物ならば、欲から手に入れた物ではありませんので、心が汚れることはありませんが、それ以上を求める欲は、生きものとして本来なくてもよいものです。
この部分をもらうということは、それを生命維持のために必要としている他の生きものから、もらわなくてはならないのです。
程度の差はあれ、他の生きものを犠牲にしているということです。
より多くを求めることは、それを必要としている他の生きものにとって迷惑なのです。
だから、欲はいけない。
欲をなくせば、自然のままに生きられるとは、こういうことです。必要以上をもらったならば、感謝しないといけないのです。
余分を他の生きものに分かち合えば、その分だけ、犠牲になるはずだった生きものが助かるのです。
略奪は、それを最小限度の範囲で必要としている者から力ずくで奪ってしまう、とんでもなく悪い行為です。
生きものとして生きている資格がない。
おねだりは、余分のものを要求していることが分かっているだけ、まだましですが、生きものとして自律できているとはいえません。行動が卑屈になり、他人にへつらうのです。
自分の必要最小限のもので足りていることを知る。
自分の必要最小限のもので満足する。
生きているだけで、ありがたいと思う。
余分のものを他の生きものと分かち合えば、堂々と生きられます。
自分には他人にない才能がある。それを役立てたら社会がよくなる。
そのような、あなたの才能に気づいていますか。
人はそれぞれ違う生き物ですから、当然、各人の体力や技術、能力、知識が違います。
それを適切なタイミングで役立てて、無駄をなくし、社会をよくしていく。
無駄がある人、もっとうまくできる可能性のある人に、あなたの才能を役立てて、無駄をなくし、うまくできるようにする。
これが教えるということであり、指導するということです。
でも、往々にして、自分の言うことに人は素直に従ってくれないものです。
どうしてでしょう。
あなたは自分の言うことに相手を従わせようとしていませんか。
あなたの才能を活かすことで人が喜んでくれて、社会がよくなる。
社会がよい方向に変わっていく。
「ああ、人の役に立った」
こうした喜びが本物です。あなたの欲を満たす、ちっぽけな喜びではありません。
一度本物を知ってしまえば、もう偽物は欲しくなくなるように、本物の喜びを知れば、欲を満たすだけの喜びはいらなくなります。
では、何が本物の喜びを知ることを邪魔しているのでしょうか。
あなたの価値判断が、あっちは悪い、こっちは良い、と物事を差別します。
二つが並びますと、もう比べることを始めます。
ひどいときには、一つだけしかないときでも、あるときとないときと、どちらが良いかを比べたりします。
物事を見ると、その瞬間に好きか嫌いか無関心かの判断が起こり、それに伴う感情が生じます。その感情でいろいろ考えてしまいます。自分の好きなものは近くに置きたいけれど、嫌いなものは遠ざけたいという欲で物事を判断し、そうなるように働きかけるのです。
物事はただそのようにあるだけなのに、あなたは、自分の欲を満たすために、世界をゆがめてしまうのです。
物が相手なら、物理的に距離をとればよいというものですが、人が相手となれば、そう簡単にはいきません。
「人を利用しようとしている」
「人のことを真剣に考えていない」
世界をゆがめていることは、人にはわかるものです。そのような者は、人から疑われ、信頼されることはありません。
あなたがしている比較は信頼できますか。
客観的にみて、公平だといえますか。
その比較をすることで、比較された方も変わることなく、穏やかでいられますか。
本当に相手が自分のことを考えてくれているのだと納得してもらうには、どうすればよいのでしょうか。
世界をゆがめるような欲は、どうして生じるのでしょうか。
人から信頼されるには、欲を持たないことがポイントのようです。
疑いと不信の根源になっている自分の価値観を持たないようにするのです。そうすれば、欲もなく、比較や判断をしません。
価値観で物事をみなければ、欲による行為ではないので、人から信頼されます。
お互いの信頼があるから、社会の無駄がなくなるように人を導いて育てることができるのです。そのことのすばらしさを知れば、人が自ら習おうとしてくれます。
そうなれば、社会は自然に安定するのです。