真実の言葉は、耳に快いものではありません。
すぐれた人は、黙して多くを語りません。
言葉を多く弄する者は、すぐれた人ではないのです。
賢人は、知識豊富な物知りではありません。
物知りを自慢する者は、賢い人ではないのです。
心を完成させた人は、自分のために蓄財などしません。
心を完成させた人は、他の人のために生きます。
そうすれば、自らがますます充実するのです。
心を完成させた人は、他の人々に与え続けます。
そうすれば、自らがますます豊かに富むのです。
真理は、あらゆる生命を幸福にすることはあっても、害することはありません。
心を完成させた人の生き方は、他人と争うことがないのです。
「これだけで十分です」と必要最小限のもので満足することを知っていれば、人々は日常の生活を大切にします。
それは、人々が日々の食事を楽しみ、物を大切にし、住む家に満足し、祖先が守ってきたものを大切にするということです。
地域の人々がお互いに見えていれば、意思を伝えあうのに多くの言葉を必要としませんので、争いごとが起こりません。
このように、人々が満足していると、より多くのものを外へ求めることがなく、生涯にわたり平穏無事に暮らせるのです。
大きな恨みを和解させても、将来に必ず禍根を残すものです。
ある人に相手の罪を追及する権利があるとします。
その権利を保つのは、慈しみの心にある人にとっては調停のためであり、そうでない人にとっては相手を罪に追い込むためです。
真理は、すべてにわたって、いつも公平な善人の側にあります。
水はかたちのない、やわらかくてよわいものです。でも水は、硬くて強い岩でさえ、穿つことができます。
このように、やわらかくてよわいものは、硬くて強いものに打ち勝つのです。
和やかでやさしい言葉は人の心を変えられますが、頑なで激しい言葉は、言う人も聞く人も、心を硬直させてしまいます。
このように、真理の言葉は世間の常識とはちがって聞こえるものです。
暖かいところから冷たいところに空気は流れる。
高いところから低いところへ水は流れる。
落ちたしずくは地面に薄く広がる。
集中して高まったエネルギーは拡散して低くなろうとします。
このように状態を変化させて安定するのが自然です。
ものが多くあるところから不足しているところへ補うように動くのが自然ということです。
ところが、世間では、ものは貧しい者からさらに取り上げられ、富んでいる者がさらに豊かになっています。
一生のうちに使い切れないほどのものを持っている富者で、見返りも求めず、余っているものを世界中の人に分け与えている人が、どのくらいいるでしょうか。
それができる人は、真理について心を完成させた理性ある人です。
理性ある人は、自然にかなうように分かち合い、自分のものを所有しません。
理性ある人は、自分の行為に見返りの名声を要求しません。
そもそも自分がすぐれているように見られようとも思わないのです。
自分の行為を尊いものだとも思わず、ただ自然にしたがっているだけです。
人は、生まれたときにはやわらかいのですが、死んだら硬直します。
身体の変化は急に起こるのではなくて、歳を重ねるごとに徐々に硬くなっています。
一日一日変化しているのに、その変化はあまりにも小さくゆっくりしているので、人はいつまでも変わらないと錯覚しているのです。
あらゆる生き物は、生きているときはやわらかくしなやかですが、死ぬときはかたく硬直するのです。
硬いものは叩けば割れて粉々に壊れてしまいますが、やわらかいものは叩いても壊れることはありません。
このように、かたくて硬直しているものは死んでいるものの仲間で、やわらかくしなやかなものは生きているものの友達といえます。
民衆が貧困なのは、治世者が税として財産を収奪しすぎるからです。
世間に不正や無法な行為がなされるのは、自分たちの生活を維持するのが苦しいからです。
別な言い方をすれば、治世者が民衆に干渉しすぎている結果ということです。
治世者が民衆の生活に干渉しないことが、民衆を元気にする賢明なやり方です。
生きているものはみんな、苦しむのは嫌で、死にたくないのです。
なぜ人は、他人や他の生き物に死の恐怖を与え、殺そうとし、殺せるのでしょうか。
いまの自分が生きているのは、他の生命があってはじめて維持できているのです。
いまの自分の存在は、他の生命があって初めて成り立っているのです。
他の生命のどれかひとつがなかったら、いまの自分は存在せず、また違った者として存在しているでしょう。
ですから、全ての生命はお互いが影響しあった平等な存在なのです。
その平等な存在を亡きものにしようとし、亡きものにする行為は、自分の存在を亡きものにするのと等しいのです。
他人や他の生命を死に追いやったら、自分もそれなりの報いを受けなければなりません。
例えば、ある事件を判決するとなると、死刑の判決を主張する人と、死刑で人を殺すべきではないと主張をする人とが現れます。そして、どちらにもそれなりの理屈があります。
人はすべてを知りたがり、なんでも知っていると思っています。
すべてを理解し、自分の考えが一番すぐれていて、他人が間違っていると信じています。
でも、かの者がしかじかの理由で殺されるべきだということを、この世の誰が知り得るのでしょうか。
このようなことは如何なる賢者にも分かりません。
しかし、真理にもとづけば、争わずに勝利を得ることができます。真理は無言の内に自然と調和しているので、作為的なことをしなくても、おのずから結果があらわれるのです。
真理は普遍です。
それから逃れられるものはありません。