ココロまいるど

武道と瞑想の実践と、お釈迦様の教えから学んだことを、色々なところからヒントを得て記事にしています。

十思の十

2011.10.29 Saturday 11:08
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    JUGEMテーマ:こころ
     

    「罰を加えようとするときには、怒りによってむやみに刑を加えることがないようにと思う」


     

     怒りは心を汚してしまいます。ですから、怒りを心から消滅させたいのですが、生きているものの定めとして怒りの種はなくなりません。条件がそろえば、怒りの感情は生じます。問題なのは、その怒りの感情を大きく育ててしまうことと、なかなか手放せないことです。

    怒りの感情を育ててしまい、手放すことをしなければ、怒りの対象を傷つけて破壊するまでは治まりません。特に、怒りの対象が自分であれば、自分自身を傷つけて破壊します。

    他のものを傷つけ破壊する行為は、そのものが生きる権利、存在する権利を侵害するものです。同じ世界に生きるものとして、許されることではありません。ですから、社会的に罰せられるのです。

     

     とはいえ、行き過ぎた罰は、罰を与えた人の心も汚してしまいます。罰を与えられるようなことをした人の心はすでに汚れていますが、罰を与えられることによって更に余計に汚れることになります。

    それだけではありません。罪を犯したことに対する怒りから罰を与えた場合、その心は怒りの状態にあり、汚れています。怒りから発した罰には相手を傷つけようとする意図しかありません。罰せられる人に精神的、肉体的な苦痛だけを与えます。それは、怒りにまかせ罰を与えることに喜びを感じる人の自己満足に過ぎないのです。ですから、罰を与えた人の心も汚れてしまうのです。

    これでは、罰を与えた本人が罰を受けていることになります。

     

    また、このような、懲らしめのために与えられる罰では、罰せられる人の心はまだ怒りにあり、汚れた心は汚れたままです。なぜ罰せられているか、全然理解できていないのです。罰せられる本人の心は、変わりようがありません。

     

     どうしたら、罰せられる人が変わろうと思ってくれるのでしょうか?

     

    自分の中にある悪いことをした汚れた心に気づかせ、自分を変えようとするきっかけを与えることが、罰を与えるということです。これが悔い改めるということです。

     自分のなした行為に気づき、その行為をさせた心に気づき、その心を罰せられているのだと納得する。これがなければ、罰せられた人は変わりようがありません。

     

    心が汚れ、罪を犯したことは残念なことです。当然の報いとして、何らかの罰が与えられます。でも、心が汚れていなければ、心が汚れなければ、なかったことです。

    そして、心は清くできます。心が清くできれば、その人はもう罪を犯しません。

     

    ですから、罪を犯した人を悔い改めさせ清い心に変える罰は、汚れた心に気づき、清い心に変わることを願う慈悲の心から与えられます。それが、罪を犯した人を善の心に導く罰の与え方です。

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    十思の九

    2011.10.22 Saturday 17:01
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      JUGEMテーマ:こころ
       

      「恩恵を加えようとするときには、喜びによって賞を誤ることがないようにと思、」

       

       何であれ人のためになるものを贈ることはよいことです。ためになるものとは、もらった人や生きものがよりよく生きるために役に立つもののことです。

       

       2007年(平成19年)7月16日に発生した新潟県中越沖地震の際に、復興のための義捐金として、1等の当選した宝くじを贈った人があったようです。贈り主はどこのだれだか分かりません。どういう経緯で届けられたのか分かりませんが、当選金が復興に役立ったことには違いありません。

      ところが、同じように宝くじで1等が当たった人でも、人生を狂わせる人もいます。

       

       いわば運によって受け取った宝くじの1等でも、自分の独り占めにせず、さらに多くの人に役立ててもらうために差し出して、生き金にする人もいれば、自分で独り占めにして、さらに自分の欲を満たそうとし、その結果、身の破滅をもたらすような、死に金にする人もいます。

       

       よかれと思って人に贈っても、受け取った人が役立てることができなければ、贈った行為自体がよい行為ではありません。また、贈ったものと量が受け取る人にとって過分のものであっては、過ぎている分だけ無駄になり、ときにはそれがもとで様々な欲望を引き起こしてしまい、逆効果になることもあります。

       この場合、本当に相手のためを思って贈ったことにはなりません。ものや言葉を与えて自己満足を得るためだけのつまらぬ行為にすぎないのです。相手のためと言いながら、実は自分のためなのです。

       人に贈り物をするときには、受け取った人にとって、よりよく生きることに役立つかどうかを考えないといけません。相手のことを考えず、自分の感情を満足するために贈ることは、かえって相手に悪いことなのだということを忘れてはならないのです。

       

       贈ること、差し出すこと、与えることが善の行為となるのは、自己満足のためでなく、相手がよりよく生きるために役立ったときです。受け取った相手が確かに自分を改善し向上させて、よりよく生ている喜びを感じられるかどうかが大切なのです。

      そして、この受け取った人の喜びを、自分もともに喜べるとき、贈るという行為は自分のために贈ったことにもなります

       

      このとき、自分も相手もともに喜び、よりよく生きることに役立つ、最高の贈り物となるのです。

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      十思の八

      2011.10.16 Sunday 01:08
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        JUGEMテーマ:こころ

        「讒言をする邪悪な臣があるのを恐れるときには、身を正しくして悪を斥けることを思い、」

         

         

        他人の悪口や噂話ばかりする人がいます。

        その人は、悪口や噂話で自分の心がますます汚れていることに気づいていないのです。その話が悪口や噂話をされた当人に届けば、その人の心が汚れますし、何より悪口や噂話を言うたびに、自分自身の心を汚していることに気づいていません。それだけでなく、悪口や噂話を聞いた人の心も汚してしまいます。悪口や噂話だけではありません。心を汚す行為は、関わる人々すべての心を汚しているのです。

        心を清らかに保つための一番の方法としては、このような人たちとは距離をおき、関わらないようにするのが一番ですが、日常生活や仕事においては、どうしてもお付き合いしなければならないこともあります。この場合には、自分の心が汚されるのを最小限にとどめなければなりません。悪い心の影響を受けないようにするのです。

         

        ところで、悪口や噂話をする人は、その人のすべてにおいて悪いのでしょうか。

        生まれてからいままで悪口や噂話をいいつづけているのでしょうか。

         

        いまの心のありかたや身の回りの状況が、ついつい悪口や噂話をさせているのかもしれません。

        その人のおかれている境遇など、悪口や噂話をするに至った原因をはっきりと把握できないならば、その人を「悪い」いろ一色で染めてはいけません。

         

        たとえば、夏の盛り。毎朝夕に植木鉢へ水やりをしているとします。その植木鉢にポトスのように水をたくさん必要とする植物が植わっていれば、その植物は元気よく育ってくれるでしょう。ところが、サボテンが植わっていたら、たちまちサボテンの元気はなくなり、二三日のうちに腐ってしまいます。毎朝夕に植物へ水をやるという行為も、ポトスのように善い結果となる植物もあれば、サボテンのように悪い結果となる植物もあります。

        同じように、人は他人に善いことをしていることもあれば、悪いことをしていることもあります。どんな人でも、万人に対して善人であるわけではなく、万人に対して悪人であるわけでもありません。

        この人は善い人、この人は悪い人、という単一のレッテルを貼るべきではないのです。この人は、こういうひとなのだ、とその人のまるごとを受け止めることが大切です。人は善悪の両面をもっているのです。

         

        悪口や噂話など、心の汚れる状況から避けられないときには、心を汚そうとする人の善い面を意識し、悪い面の影響を受けないようにすればよいのです。

         

        とはいえ、多くの時間をその心の悪い面とかかわるようであれば、影響を全く受けないようにすることはできません。できることなら、その悪いものを善いものに変えることができれば、悪い影響を受けないように気をつかいつづけなくてよくなります。

        また、悪口や噂話そのものを注意することもできますが、悪口や噂話そのものは、話すという行為の結果です。結果に働きかけても、その原因は変えられません。ここは、悪口や噂話そのものに働きかけるのではなく、悪口や噂話をする心に働きかけるのです。心の汚れた人として退けるのではなく、汚れた心を清い心に変えるようにするということです。

         

        そのためにも、自分心は正しく保たねばなりません。自分の正しい心だけが、人の悪い心を正しい方向に導くことができます。

        ですから、まず自分自身の心が善い心にあるかを常に観察しなければなりません。

         

        では、悪い影響を受けないようにするには、どうすればよいのでしょう。

        たとえば、悪い言葉を聞くとします。それは、耳にとどいた音にすぎません。その音に解釈を加えて、感情を引き起こすことが心を汚しているのです。ですから、五感を通じて受ける刺激は感覚で止め、自分にどんな感情がおこっているのか、観察をつづけるのです。感情に気づけば、その感情に執着しないようにします。そして、心が汚れないような状態に自分がいられるならば、心を汚すような言葉を吐いていた人も聞いてくれる人のいないことを知り、やがては心を汚す言葉を口にしなくなります。徐々にですが心の汚れる頻度が減り、加えて、その人に自分自身への気づきがあれば、清い心に変わっていくでしょう。

         

        このように、この人は善い人で、この人は悪い人だ、と区別するのではなく、どのような人であっても、悪い心を斥け、善い心を養うように働きかけるのが、まことの指導者です。

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        十思の七

        2011.09.27 Tuesday 23:44
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          JUGEMテーマ:こころ
           

          「君主の耳目をおおいふさぐもののあることを心配するときは、虚心に臣下の言を納れることを思い、」

           

          家庭や会社、自治会、すべて一つの組織です。地域社会で生活していれば、人は何らかの組織に属しており、組織に全く関わりなく生きることは不可能に近いことです。

          組織に属していると、その中では必ず上下関係があります。組織では責任の所在を明確にする必要がありますから、こうした上下関係がないと機能しないのです。それが、重要な人物と重要でない人物をつくってしまいます。人間の存在に価値がついてしまうのです。

           

          他人が付ける価値もありますが、自分自身で「私は重要な人物だ。価値ある存在だ」と思ったりもします。組織においては、より価値ある存在であるほど自己満足度が高いですから、人は自分の価値をあげようとするか、自分に価値があるように見せようとするかのどちらかを選び、振る舞います。

           

          自分の価値をあげようとする場合は、向上心です。自分の能力を高めるために、積極的に学ぼうとします。こちらは、自分自身だけでなく組織にとってもプラスになります。

          問題となるのは、自分に価値があるように見せようとする場合です。この場合のおもねる心を心配する必要があります。人がおもねる心にあるとき、自分に都合の悪いことは隠し、よいことばかり伝えようとします。わが身が一番大事という意識が強いものですから、自分の保身には大変熱心です。人を疑いの目で見ますから、心が汚れます。

          疑いの目で見られた人々も同じように疑いの目で見てしまうようになります。

          人を信頼できない雰囲気が醸成され、人々の心が汚れていきます。組織にとっては、好ましくない状態になってしまいます。

           

          ですから、所属する人々が相互に信頼しあえる場であり、自己を成長させる機会に恵まれたものでないと、組織は健全に機能しないのです。

           

          組織において、人に一番求められる能力は、コミュニケーションです。

          コミュニケーションをとおして、個人個人がつながることができます。この有機的なつながりが、組織という一つのまとまりとなります。人と話すのが嫌いだからしゃべらないという態度をとる人もいますが、しゃべらないという態度も組織の中での立派なコミュニケーションです。

           

          よいコミュニケーションがなされるためには、人の話を良し悪しの判断をせず、まず聞くことです。お互いが、自分と相手を慈しみ、思いやり、幸せを願う心にあるようにすることです。このようにあれば、自分だけの感情で物事を判断しません。

           

          たとえ話をひとつ。

          虹は、空中の水滴によって7つの色に分けられたものです。

          自然の光は無色透明のようですが、内部にはいろいろな色の光が混ざっているのです。

          自然の光にフィルターを通せば、いろいろな色に分けることができます。逆に、フィルターを通すことによって、単独の色しか見えないようになってしまうとも言えます。

          本来の色で物事を見ようとするならば、フィルターを通して光を見てはいけないのです。

           

          このことを、コミュニケーションに当てはめてみましょう。

          自分の感情や価値観や人物評価などのフィルターを通して人の話を聞いていては、その人の話の本当に言いたいことを正しく知ることはできないということです。

           

          話を聞くという場合、話の内容を把握することだけを思いがちですが、それは違います。

          私たちが人の話を聞くときには、話している内容のほか、話すときの口調、声の高さ、話しているときのしぐさや態度など、言語に関わること以外からも多くの情報を受け取っています。これら五感から得られる情報を総合的にまとめて「聞く」という行為を行っています。

          ですから、正しく聞くためには、五感から得られる情報に、フィルターを通した偏った色がつかないようにしなければならないのです。

           

          しかし、人の中に自分というものがある以上、感情をなくすことや価値観を持たないようにすることはできません。

          そこで、よいコミュニケーションのためにできることは、フィルターを上質なものにすることです。汚れのない清い心をフィルターとするのです。そのフィルターを通して人を観る。偏りのない心で人を観るのです。

           

          では、偏りのない心にあるにはどのようにすればよいのでしょうか。

           

          心の状態は、安定していて穏やかであることです。聞く人がいろいろなことに気をとられていて、話を上の空で聞いているようでは、聞いている状態にすらなっていません。

          ですから、自分が人の話を聞く状態になっているかが前提として求められます。話を聞く状態にあれば、この人は私の話を本当に聞いてくれる、聞いてくれているという安心感が、話す人におこってきます。この安心感のもとで、話す人と聞く人の間に信頼関係が構築されます。

           

          信頼関係を築くためには、相手を批判的な目で見てはいけません。自分の価値観や相手に対する評価などで、視野を狭めて話す人を見てはいけないのです。

          視野が狭まった時点で、立派な人柄だとか、言い回しのくどい人だとか、大げさに表現する人だとか、よい意味でも悪い意味でも、自分の好みの「話す人」のイメージをつくってしまいます。そのイメージが邪魔をして、話す人の本来の姿を掴めなくしてしまいます。

          そのような状態から得られる気づきも、限定されたものになってしまいます。話す人の見えない部分が多く、本来の状態に気づくことはできません。話す人の言葉をあるがままに受け止めることができないのです。

           

          このように、自分が間違った色眼鏡で物事を見ているのではないか、自分の価値観や評価などに執着していないかを常に意識して、穏やかで安定した慈しみの心で、人に対して無批判に接し、客観的な目で物事を観ることが、コミュニケーションには必要不可欠なのです。

          そして、このようなコミュニケーションが、健全で豊かな組織にするのです。

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          十思の六

          2011.09.22 Thursday 01:01
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            JUGEMテーマ:こころ
             

            怠りなまける心配のあるときには、始めを慎み終わりを敬することを思い、
             

            いまは書籍にもなっていますが、北海道大大学院農学研究科の長谷川英祐助手(当時)が行った実験に、30匹ほどのアリの集団を3つ用意し、1匹ずつ印をつけて行動を観察したものがあります。その結果、2割のアリはよく働き、6割のアリは普通に働き、2割のアリは遊んでいることが分かりました。

            よく働くというイメージのある「働きアリ」でも、よく働くものもいれば、遊んでいるものもいる。その遊んでいるものも、敵が侵入してくれば、排除するために必死で働いているとのこと。平常時で遊んでいるものも、緊急事態では必死に働いているわけです。

            このことから、各々が自分の属する集団に対して発揮できる固有の才能をもっており、それが発揮できる場面で効果的に働くことにより、集団としてよりよく存続できるよう全体でバランスをとっていることがわかります。自然界においては、全てが同じレベルで働くことはなく、個体によってパフォーマンスが違っていて当然だということです。

            ですから、よく働くものは偉くて、遊んでいるものはお荷物だという評価は、物事を一面からしか見ていない、人間の勝手に考えた感心的な価値判断に過ぎないということです。

             

             人においても、その人が苦行を志していない限り、しんどいことは嫌で、できるだけ楽をしたいと思っています。

             もともと人は、仕事が嫌いで遊ぶことが好きだと思っていればよいのです。仕事は怠けがちだということを事業の計画に先に盛り込んでおくのです。

             事業の推進に責任を負っているリーダーは、できるだけ優秀な人材を部下に持ちたいところですが、優秀な人材など、そうごろごろいるわけではありません。いまいる人材で何とかこなさないといけない状況に常に立たされています。

             ヒト、モノ、カネが大切なものとしてあげられますが、ヒトを考えることが第一です。モノとカネは、結局はヒトが調達し、ヒトが使うものだからです。一方、ヒトを連れてくるのもヒトですし、ヒトを育てるのもヒトです。ですから、大切なのはヒトで、これを第一に考えるべきです。

             

            例外なく、人は働いていると必ず疲れます。連続して働く時間が長ければ長いほど、疲労がたまり、仕事の能率が落ちてきます。ですから、事業を推進する際には、人が疲労することも考えて、休息に係る要素も盛り込んでおかないといけません。ここで、注意しなければならないのは、休息をとることは、怠けることとは異なるということです。休息は事業推進のパフォーマンスを落とさないために設けるものです。一方、怠けることは、もともとパフォーマンスが落ちている状態であるということです。事業計画の中にメンバーのパフォーマンスの悪い状態をあらかじめ織り込んでおきます。つまり、事業の期間とマンパワーには、メンバーが怠けることを前提にしつつも、休息の必要性にも考慮し、慎重に計画を立てるようにします。そして、これを計画の基準とするのです。

            こうすると基準の計画はひどい状態からのスタートになりますが、事業の評価としては最低限認められる状態です。基準まで達しただけでも、それはそれで成果として認められるものになりますので、「良い」と評価できるということです。その状態から事業の課題を整理し、解決していくと、基準より好ましいパフォーマンスが出せます。

            そうすれば、最終的に達成したレベルがどうであれ、事業が成功したと評価できる状態にあるならば、その事業に関わったメンバーは皆よくやったことになります。成功を称えあうことができるし、成功の喜びを分かちあえます。その過程で、事業に関わるメンバーがそれぞれの担当で仕事に集中し、順調に進んでいたならば、さらに喜ばしいことです。

             

            さて、遊んだり怠けたりする傾向のある、いわゆるパフォーマンスの悪いメンバーに対しては、仕事をしていないなら休息などいらないだろうと思いがちですが、休息を与えないとストレスが溜まり、さらに機能しなくなります。仕事場にでてきている以上、その時の自分の行動として仕事を最優先で選択しているのであり、仕事をするという意思表示の表れです。事業のリーダーは、遊んでいるメンバーを、それがその人の仕事のスタイルであることを認めないといけません。

            そこで、事業全体のパフォーマンスをあげるにはどうすればよいかを考えてみましょう。

            事業を推進するときよく使われる言葉に、「一丸となって」という表現があります。メンバー全員がひとつとなって頑張ろうと、精神的にも意気高く同じ状態にあることを求めているわけです。確かに、全体的にまとまることは大切なのですが、メンバーはそれぞれ異なった個性をもった人間です。同じ集中力、同じ仕事のスタイル、同じモチベーションを持っていません。同じ作業でも、集中して手早く仕上げしまうメンバーもいれば、少しやっては休み、少しやっては違う仕事にかかって仕上げるメンバーもいます。リーダーの注力すべきところは、メンバーの個性を認めて、各自の仕事のやり方がやりやすい環境と条件を整えることにあります。

             

            ところで、事業の進捗においては、目標と工程の管理が重要視されますが、それが最も大切なことだと本当に言えるのでしょうか?

             

            目標は、達成すべき量や期間について数値で掲げられることが多く、一度掲げられると、その数値に縛られてしまい、なかなか修正したり取り下げたりはできません。

            ここで考えないといけないことは、世の中には、変化しないものはないということです。事業を取り巻く状況も時々刻々と変化しています。メンバーの状態も変化していますし、事業に費やせる時間も刻々と減っています。想定外の事故が起こるなど外的な要因によっても変化しています。そもそも目標となる数値は決めた時点での状況や条件などから判断され、はじき出されたものです。その決定過程には多くの仮定が含まれています。

            ここで、仮定するということは、すべては変わることを暗に認識していることに気づかねばなりません。通常では不確定要素があまりにも多いので、予想をたてることができない。そこで、条件を仮に固定することで、理解できる範囲にまで狭めているのです。ところが、現実には固定した要素は変動していますから、結局ところどうなるのかは、実際に測定してみないと分かりません。ですから、設定した目標自体がいい加減なものなのです。これにしばられることは、ナンセンスです。

            「一丸」とは、どれだけ飛ばすかよりも、どこへ飛ぶかの方が大切でしょう。事業のメンバー全員が共有しなければならないのは、目的なのです。目標ではありません。

            何のためにメンバー全員でこの事業を行っているのか。これが共有されて、全体としてひとつとなっていれば、メンバー各人が自分のスタイルで仕事を行い、必ず最高のパフォーマンスで事業を達成します。評価なんていりません。

             

            このように、リーダーがまずなすべきは、事業に関わるすべての者と目的を共有することです。

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            十思の五

            2011.09.18 Sunday 21:58
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              JUGEMテーマ:こころ
               

              「狩猟などをして遊び楽しみたいときには、三駆を限度とすることを思い、」

               

              自分の趣味や娯楽ばかりに耽ることができれば、楽しくて充実した人生をおくっているように思えます。あちらこちらに注意散漫な状態で趣味や娯楽を楽しんでいる人はいません。集中できるから楽しいのです。

              人にとって、集中できる環境があることは大切なことです。物事を注意深く進める上でも、集中力は大切です。趣味や娯楽を楽しんでいるときには、時間の経つことも忘れて、その行為に没頭します。このように、趣味や娯楽に力を入れることには、集中力を高める効果があるので、あながち無駄なこととは言えません。

               

              では、趣味や娯楽を楽しむことの、どこに問題があるのでしょうか。

               

              まず、趣味や娯楽を定義してみましょう。

              ここでは、仕事以外の時間で多くの時間を費やしている、専門としてではなく楽しんですることを「趣味」としましょう。また、時間の多少に関係なく、楽しむ要素とそれによってストレス発散の効果が大きければ、「娯楽」と定義します。

              例えば水泳であれば、教室に通っているなら趣味ですが、休みのときに家族や友達を泳ぎに行ったりするのは娯楽になります。

               

              さて、お金や権力や時間があると、際限なく趣味や娯楽につぎ込んでしまいます。なかったとしても、普段の生活をも多少犠牲にして何とかやりくりし、お金と時間の都合をつけたりします。人は、そこまでしてでも、自分の趣味や娯楽に耽って、なかなかやめられません。耽っているときに、五感からより多くの刺激が得られれば、より楽しいものとして感じます。その刺激が快感になると、快楽になります。快楽はいつまでも続くものと思うと同時に、続いて欲しいと執着します。ところが、刺激が続くと、自分の感覚がその刺激に慣れて、思っているほど快感を得られなくなります。いままで気持ちよかったのに、それほどでもなくなってしまうのです。このように、快楽に執着することは、そのとき楽しいだけで、この先ずっと続くものでなく、後に何も残りません。非生産的で、有意義でないのです。

               

              どうも、趣味や娯楽においては、快楽を求め執着することに問題がありそうです。

              では、何のために趣味や娯楽をするのでしょうか。

              野球やサッカーなど、スポーツを趣味にしている人は多いでしょう。自らがプレーヤーになることもあれば、お気に入りのチームの試合を観戦したりすることも、趣味や娯楽になります。競技に関わることで、ストレス発散をしようとしていることはよく分かります。でもそれは、自分が勝つ方にいればの話です。

              このような競争の要素を含んだものは、勝つと楽しいのですが、負けると悔しいものです。基本的に負けた方は、恨みを持ちます。ストレスの発散にはなりません。余計にストレスが溜まります。いつかは勝つことを望んでリベンジを誓ったりします。そして望みがかなって勝ってしまったら、こんどは恨まれる方になってしまいます。

              ですから、わざわざスポーツマンシップに則ったフェアプレイを宣言させてまで、恨みっこなしですよ、とするのです。競争することは、宣言しなければならないほど心が汚れる行為なのです。

              また、競技をする者の感情は観戦する方にも伝染します。競技する者と観ている者との一体化が気持ちよいと言われますが、サッカーや野球をはじめとする多くのスポーツで、応援しているチームが負けたことに腹が立って、サポーターやファンが暴動を起こし、警察と乱闘になった事例は多々あります。

              このように、競い争うことは感情に強い影響を与えます。関わる者の心は静まりません。

               

              ところで、すぐれた技は自分の動きに集中していないとできません。そのためには、自分の心を静め、自分の行動を冷静に客観的に観察できなければなりません。プレーヤーには高い観察力が求められるのです。競技で、すぐれたパフォーマンスをしようとするなら、相手と争っていてはできません。スポーツなどの競技において楽しむべきは、闘争心のままに我を忘れた状態になることではなく、感情の起伏を伴わない、静かだけれど密度の高い集中状態になることです。趣味や娯楽は、快楽を求め執着する騒がしい心のためのものでなく、集中力の高まった静かな心のためのものなのです。

               

              人は日々の生活で疲れを感じます。寝ることは楽なはずなのに、ずっと寝ていれば疲れます。気分をかえるためにも、趣味や娯楽を楽しむことは必要です。

              趣味や娯楽を何のためにやっているのか、自分の満たされない部分のどこを満たそうとしているのかを観察します。こうした気づきから、こだわり続けるべきものなのか、やり続けるべきなのかを判断します。もし、それが自分の成長にとって有意義なものでなければ、きっぱりやめなければなりません。

               

              このように、趣味や娯楽は、それをすることがほかの人や生きものにとって迷惑なことでなく、自分にとって有意義であるならば、大いに楽しめばよいのです。

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              十思 | - | - | - | - |

              十思の四

              2011.09.14 Wednesday 00:50
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                JUGEMテーマ:こころ

                「満ち溢れることを恐れるときは、江や海があらゆる川よりも低いところにおることを思い、」

                 

                自分で買ったり、人からプレゼントされたりして色々な物が手に入る。あるいは、人々から自分のスタイルが注目される。

                このように金品や食べ物などのモノだけでなく精神的にも満たされると、人生で成功しているように感じます。物事が自分に集まってくると楽しいのです。世の中の流れが自分の方向に向いているように感じることができれば、充実した日々が送れます。だから、いつも注目されていることを願い、モノに満たされていることを願うのです。

                このような願望の度が過ぎてしまうと、自己中心的な性格がどんどん強められます。他人は私のために尽くすのが当然だと思ったりもします。自分のお気に入りの人はよい人となって好きになり、そうでない人は悪い人となって嫌いになります。どちらでもない人は目に入りません。

                やがて、好きな人とだけ付き合うようになり、嫌いな人とは距離を置くようになります。そして、自分の人気が上がっていると思うにつれて、交友関係は限られた人とのみになっていきます。自己中心的な性格では、人とのつながりは広がるどころか、狭まっていきます。自分を高貴にするどころか、卑しくしてしまうのです。ところが、自分自身は楽しいものですから、こうした矛盾に気づきません。

                 

                ここで、自然界に目を向けてみましょう。自然界で満ちて溢れるものを探してみると、湖や海が思い浮かびます。

                そこで、モノや注目を集めている「自分」を、「海」に例えてみましょう。そうすると、自分に注目してくれる人々やモノをプレゼントしてくれる人々は、「川」になります。

                山や平野から水を集めて川になって流れ、海に入ります。これが自然の状態です。

                どうしてそうなるのでしょうか。

                それは、海がどこよりも低い位置にあるからです。実にシンプルです。

                これを人に当てはめると、満ち溢れる人は他の誰よりも低い位置にいるということになります。低い位置とは、姿勢のことと思えば分かりやすいでしょう。満ち溢れる人は他の誰よりも姿勢が低いのです。

                低い位置にあるから、重力の働きによって水が自然に集まってきます。姿勢が低いから、愛の働きによって人が自然に寄ってきます。その方が落ち着くのです。

                 

                川と海との関係をもっと詳しく見ていきましょう。

                水を集めて川という流れをつくって海になります。

                でも、水や川や海という区切りは本当にあるのでしょうか。境界線が引けるものでしょうか。

                ここまでが「川」でここからが「海」などという境界線などありません。これらは人がつくった概念に過ぎないのです。「自分」と「他人」も同じです。人の脳がつくった概念に過ぎません。本当は、「自分」も「他人」もありません。

                本当はありもしないものを勝手につくって、尊いものと考え、大切にするからややこしいことになるのです。自分だけに特別な価値があるわけではありません。これは不自然です。

                川も海も水の流れに過ぎません。人だってそうです。他人も自分も意識の流れです。

                自分と他人の区別をなくし、同じ意識であると理解しなければなりません。そうすれば、いつも広い心でいられます。

                 

                さて、もう一つ大切なことがあります。

                それは、川に集まる水は一体どこからきたのかということです。

                山や平野に含まれる水の元は、雨ですね。

                では、その雨はどこから来たのでしょう。

                海や川からです。海や川から水分が蒸発して、大気中で水滴となって集まって、雨になって山や平野に降り注ぎます。

                 

                このことを観察すると、他人から与えられるものは、自分が与えたものであることが分かります。先ほどの姿勢の話とあわせて考えると、自分を満ち溢れさせる、つまり自分を豊かにするには、まず自分から与えることが大切であると理解できます。

                 

                さらに、水が自然に低い位置に集まって落ち着くことが自然の秩序であるならば、邪な意図をもって作為的に姿勢を低くするのではなく、自ずと低い姿勢にあることが人の秩序を守るということ、つまり礼に適っているということです。

                 

                このように、まず自ら与えることが自分を豊かにすることであると知り、自ずと低い姿勢にあることが大切なのです。

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                十思 | - | - | - | - |

                十思の三

                2011.09.01 Thursday 17:21
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                  JUGEMテーマ:こころ
                   

                  高く危いことを思うときには、謙遜して自己を虚しくすることによって自ら処することを思い、」 


                  自分の人生をより充実させようと、人は生活水準や社会的な地位などの向上を望みます。

                  よりよいモノを、よりよいステータスを求めることは、人が幸せに生きるために不可欠なものとして考えられがちです。「よりよい」先には、いまより自由で満足感があると思うのです。そのために到達する目標を置いて、目標達成に向け邁進します。それが生き甲斐にもなります。

                  ところで、その目標に達成したときに、果たしていつまで、自由や満足感を維持できるでしょうか。すぐに、もっと上、もっとよいものを求めるのではないでしょうか。

                  積極的には「挑戦」といって、こうした欲望を正当化します。

                   

                  でも、あなたの生きることに、このような挑戦が本当に必要ですか。

                   

                  挑戦や向上心は、その対象がなければ成り立ちません。つまり、このような「心」は満足することがないのです。確かに挑戦すれば、物事を成し遂げるために必要な能力や技量、体力、知識などの力が身につくでしょう。また、達成することによって、積極性が高まり、自信もつきます。これら自体は大切なことなのですが、それにつれて、自分は衆にすぐれた能力のある素晴らしい人間なのだ、と思い出すと、注意が必要です。

                  慢心が成長し、どんどん自信過剰になります。自分をほかの人より高い位置において、物事を見るようになります。いわゆる、上から目線で人を見るようになってしまうのです。そうなると、人の反感をかいます。恨まれたりします。確かに、万人に好かれる人などいないでしょうが、本来ならば良好な関係でいられる人とも険悪な関係になったりします。

                   

                  歴史上の有名な話を見てみましょう。

                  戦国時代、毛利家に仕える外交僧であった安国寺恵瓊が、その書状の中で「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候と書いており、織田信長の転落を予想しています。はたして九年後の本能寺の変において、この予想が的中したことは周知のところです。権力の高みを目指した織田信長の強烈な個性は、人としての魅力でもあるのですが、性格として人を従わせるところはあっても、人を心から受け入れるところはなかったように思います。さて、信長の後を継いだ豊臣秀吉は覇者まで上り詰めましたが、さらに領土拡大を求め朝鮮半島に出兵するあたりから、時勢は秀吉の思惑からずれ始めます。日本国を統一したときに、国内の安寧に注力すれば、豊臣家を中心に永い平和が保たれていたでしょう。しかし、秀吉は自制できなかったため、自分が築いてきたものを壊すことになりました。

                  もう一つ知力での例を挙げましょう。

                  三国志で有名な「泣いて馬謖を斬る」の故事のことです。三国志の蜀の国に、知恵に優れ有能の誉れ高い武将であった馬謖が街亭の戦いに臨みました。この戦いには、事前に諸葛亮の指示が与えられていたにもかかわらず、自らの考えに固執し作戦を変更した結果、敗戦を招きました。この責めを負い、馬謖は処刑されることになります。

                  これらの権力や知力の事例にもみられるように、人は「力」というものをもつと、頭の良し悪しに関わらず、正確な判断ができなくなるようです。

                   

                  悪い事例ばかり見てきましたが、よい事例もあります。

                  アメリカ合衆国の著名な投資家であり、実業家であるウォーレン・エドワード・バフェットがそうです。バフェットは純資産470億ドル(2010年)という経済力を持ちながらも、その生活は極めて質素で、1958年に31,500ドルで購入した住宅に住み、自身が最高経営責任者(CEO)を務める会社から年に10万ドルを受け取るだけ。確定申告も自分自身で書類を作成しています。投資で思わしいリターンが得られなければ、株主総会の場で、自分の投資判断の失敗を素直に認めます。このように、自らの資産がもつ「力」に驕ることなく、自制を忘れないバフェットは、フォーブス誌によるアメリカの長者番付で1986年に5位に入って以来、毎年ベスト10に入り続けています。また、2006年、バフェットは資産の85%にあたる約374億ドルを5つの慈善財団に寄付する、と発表しました。これは、アメリカ史上最大の金額です。こうした点から、バフェットは世界中から尊敬を集め、敬愛の念をこめて「オマハの賢人」とも呼ばれています。

                  日本では、日本資本主義の父といわれる渋沢栄一があげられます。渋沢は、幕末から大正初期に活躍した幕臣、官僚、実業家で、第一国立銀行や東京証券取引所などといった多くの企業の設立と経営に関わりました。渋沢が三井高福や岩崎弥太郎、安田善次郎、住友友純などの明治の資産家と大きく異なる点は、財閥を作らなかったことにあります。渋沢が1916年(大正5年)に著した『論語と算盤』には、「道徳経済合一説」という理念が打ち出されており、「富をなす根源は何かと言えば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」と述べられています。また、同書の「事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。」という言葉は、渋沢の経営哲学の真髄といえるでしょう。そして、この「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通しました。

                   

                  このように、力のある人ほど自らには自制心を、他人には謙虚さをもって、自分の力をほかの人や生きものの役に立てることが大切なのです。

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                  十思の二

                  2011.08.22 Monday 14:38
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                    JUGEMテーマ:こころ
                     

                    営造しようとするときには、止めるを知って民を安んずることを思い、」

                     

                    自分の行為は、その他の多くの人々に影響を与えていることを理解していますか?

                    逆に、その他の多くの人々の働きがあるから、自分のやりたいことができるということも忘れてはなりません。

                    例えば、あなたが百貨店に行って買い物する場合をみてみましょう。

                    買いたい物の原材料を作る人、加工する人、組み立てる人、輸送する人、百貨店を経営する人、百貨店の従業員などが、あなたの目の前にある買いたい物に関わっています。さらに、これら働く人々の生活を支えている人々がいます。そもそも、あなたがそれを買うためのお金を与えてくれた人々もいますし、あなたをいままで育ててくれた家族があってはじめて、いまのあなたが存在しているのです。これらの人々のおかげで、あなたは買い物ができるのです。

                    自分だけでなんでもできる。他人は関係ない。このような言い方は、自分勝手の未熟な思考で、思い違いに過ぎません。

                    自分を中心に人のつながりを広げていくと、ついには全ての人々とつながります。

                    このことから、自分の行為の一つひとつが、その他の多くの人々に影響を与えているのだということを思い、行動しなければなりません。

                    ましてや、大きい事をしようと思うならば、さらに多くの人々に強い影響を与えることになります。ですから、自分の行為の一つひとつを、自分につながる人々を心穏やかにするものであるかどうか判断し、行動するように努めなければなりません。

                    事が大きいと、意気込んで一気に事を運ぼうとしがちですが、進む方向が間違っていれば大変です。方向を間違えないためにも、一瞬一瞬の自分の振る舞いに、気づきをいれる必要があります。大切なことは、「いま自分は何をしているのか」に気づくことです。気づいた上で、善し悪しを即時に判断するのです。

                     

                    善い事はする。

                    悪い事はしない。

                    簡単なことのように思いますが、この判断は難しいものです。

                    そもそも、善い事とはどんなことでしょうか?

                    それは次の四つが同時に満たされるときです。どれか一つでも欠けていれば、善い事ではありません。

                    一、自分にとって善いことである事。

                    二、相手が善いと感じている事。

                    三、相手のその喜びが自分のこととして共に喜べるものである事。

                    四、そして、お互いの喜びが自然の秩序を乱さないものである事。

                    ここで、自然の秩序について補足しておきましょう。

                    自然の秩序を乱すとき、心も乱れています。このとき、心は善にありません。

                    ここでは、心を善くないものにする行為のことを、心を汚す行為といいましょう。

                    心を汚す行為は、大きく四つに分類されます。

                    一つ目は、生きものを殺すこと。

                    二つ目は、与えられていないものを盗むこと。

                    三つ目は、嘘をつくこと。

                    四つ目は、中毒性のものにふけらないこと。

                    以上の四つです。

                     

                    一番目の生き物を殺すという行為は、心を汚す行為の代表格です。この世は人を含めた生きものの世界です。あたりまえのことですが、死んでしまうということは、この世には、もう生きていないということです。生きものは自然の営みの中で死に向かいつつも最大限に生きようとします。自然の秩序が最善に保たれているということとは、生きとし生けるものの生態系のバランスが最も良い状態にあるということです。いくらお互いの喜びのためだからといって、自分達の好き勝手に振る舞い、この自然の秩序を乱してはならないのです。特に、自分の趣味や怒りの感情で他の生命を奪う行為は、この世に生きる生命として、やってはならないことです。

                     

                    二つ目の与えられていないものを奪うことについては、最善の状態から考えてみましょう。

                    自然の秩序が保たれて、バランスが最良にあれば、不足するところはありません。

                    それが、生態系が健全に保たれている状態なのです。最低限必要なものは必ず与えられる世界です。そのためには、足りていることを知ることが大切です。

                    与えられていないものを盗むことは、他のものに与えられるべきものを奪う行為なのです。奪った瞬間、最良のバランスが崩れます。その行為は、本来なら与えられることになっている者から、その機会を奪ってしまっているのです。

                     

                    三つ目の嘘をつくことには、自分に嘘をつくことや自分を正当化することも含まれます。

                    殺すこと盗むことの二つの行為をしてしまったら、心が少しでも善い方にあるならば、罪悪を感じます。この罪悪感を軽くするために自分を正当化したり、自分に嘘をついたりしてしまいます。自然の秩序を損なうことを、自分に嘘をつくことによって正当化してしますのです。もともと、嘘をつくこと自体、心が汚れる行為であることは、納得いくでしょう。

                     

                    四つ目の中毒性のものにふけるとことは、自分の行為の善し悪しを判断できなくなるということです。五感から得られる刺激が快いものだと、その快楽に執着し、それをずっと味わっていたいという欲が生じ、同じ行為を何度も繰り返すのです。ただ行為を繰り返すことだけに夢中になって、自分の行為が自然の秩序を損なっているかどうかなど判断できません。欲に執着している時点で心が汚れていますから、中毒になっている間中、心は汚れっぱなしということになります。

                     

                    少々、長い補足になってしまいましたので、もう一度、善いことであるための四つの条件をおさらいします。

                    一、自分にとって善いことである事。

                    二、相手が善いと感じている事。

                    三、相手のその喜びが自分のこととして共に喜べるものである事。

                    四、そして、お互いの喜びが自然の秩序を乱さないものである事。

                     

                    さて、善い事は四つを同時に満たしている必要が本当にあるのでしょうか?

                    このことの理解を助けるために、次の例を考えてみてください。

                    子どもがミカンを手にもって帰ってきました。とても嬉しそうです。

                    子どもの喜んでいる顔を見て、あなたも嬉しくなります。

                    子どもの喜びを見る、あなたの善。

                    ミカンを手に入れた、子どもの善。

                    子どももあなたも嬉しいので、お互いの喜びを共有しています。

                    ここまではとても善いことのように思えます。大抵は、ここで「よし」としてしまいます。

                    そこで、「どこで手に入れたの?」と子どもに訊ねます。いろいろ聞いてみると、どうも隣の家の木に一つだけ残っていたものを黙って採ってきたようです。

                    おそらく、その一つは、隣家の人が鳥のために採らずに残しておいた、ミカンなのでしょう。子どもはそれをとってきたのです。

                    隣のものを何の断りも無く採ってしまったことは善くありません。鳥のためにと思って残しておいた隣の人の心遣いを無にしたので善くありません。また、そのミカンを食べられるはずだった鳥が食べる機会を失ったことも善くありません。結果的には、子どもの行為も、それを見た「あなた」の喜びも、善いことになっていません。

                    だから、四つが同時に満たされているかどうかを確かめないと、本当に善い事なのかどうかが判断できないのです。

                    このように、常に心静かに落ち着いて、一瞬一瞬の自分の振る舞いに気づきをいれ、以上の四つが満たされているかを即時に判断することが大切なのです。

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                    十思の一

                    2011.08.15 Monday 16:28
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                      JUGEMテーマ:こころ 


                      「欲しいものをみたときには、足るを知ることによって自ら戒めることを思い、」
                       



                       どこまでが本当に自分にとって必要なものなのでしょうか?

                      人が幸せに生きる上で不可欠なことは、季節・風土にあった服を着ること、必要以上に食べないようにすること、生活の場の雰囲気をよくすること、罹った病気を治すことです。

                       

                      氷点下に裸でいると、凍死してしまいます。太陽の照りつける下に裸でいると、火傷してしまいます。ハチの大群のなかに裸でいると、刺されてしまいます。服を着れば、これらのことから身体を守れますから、生きていく上で必要なことです。

                      でも、派手な装飾を施したコートが必要でしょうか。

                      コートは冬に着るものですから、真夏に着るものではありません。季節が違うのです。

                      服装を選ぶには、まず季節を考えないといけませんね。これは、簡単に理解できるでしょう。

                      冬にコートを着ることは間違っていません。ところが、コートにもいろんなデザインがあり、装飾も施されています。同じ時期に、結婚式とお葬式があったとします。これらの場には同じコートを着て行けません。その場にふさわしい服装というものがあります。自分が経済的に豊かであっても、その場に求められている以上に派手すぎる服装や、あるいは逆にラフすぎる服装は、周りの人々に不快感を与えます。

                      また、同じ服装を着ていても、圧倒する印象を与える人もいれば、ちぐはぐな印象を与える人もいるでしょう。他人によく見てもらいたいと思いながら、自分の着る服や身につける装飾品を選んでいるのでしょうが、実際のところ他人は、服や装飾品を含めた、あなたが醸し出す「まるごとすべて」を見ているのです。

                      ですから、流行の服や豪華な服を着ることの浅はかさを知り、人間としての品位を高めることが大切なのです。

                       

                      食べ物がないと、餓死して死んでしまいますから、なくてはならないものです。

                      でも、希少な食材を使った豪華な食事やテーブルいっぱいの食事は必要でしょうか。

                      希少な食材は高値で取引されるので、それに関わる人々の経済状況を豊かにしていることでしょう。また、テーブルいっぱいの食事を用意するためには、たくさんの食材が必要ですから、生産に関わる人々の仕事を繁盛させていることでしょう。お金がないと食べ物も手に入らない社会であれば、これらはよいことだと思われます。よいことをしていると考えられるのです。

                      飢餓で苦しんでいる人々が心身ともに健康でないことは容易に想像つきます。では、経済面ではそのような状態の対極にいて贅沢な食事もできる人が、心身ともに健康なのでしょうか?

                      糖尿病や動脈硬化など、いわゆる過食や偏食が原因で健康を損なう人々がいることを考えると、食べ物の摂りすぎもよくないことは容易に分かります。食べられないことも駄目。食べ過ぎることも駄目なのです。

                      草食系の野生動物は、草地を移動しながら食べます。ある地域を一気に食べ尽くしてしまうと、次のシーズンの植物が育たず、食べることができないからです。肉食系の野生動物は、捕獲した獲物を全て食べたりしません。例えば、ライオンは少し食べ残し、それをハイエナが食べています。もちろん、ライオンがハイエナのために食べ残しておこうなどと思っていないでしょうけれど、自分だけで全てを食べ尽くさないということが、より多くの生きものを生かせるようにするための自然の摂理なのです。人は余計な欲を持ち、それに執着しすぎるので、この摂理に外れてしまいがちです。結果として病気になって苦しんで、幸せになれません。

                      ですから、どんな生きものにも食べ物が必要であることを知り、自らは必要以外食べないようにすることが大切なのです。

                       

                      空気がないと、呼吸ができなくて死んでしまいますから、なくてはならないものです。

                      最近、酸素を売っていますけれど、これは必要でしょうか。

                      ちなみに、都市部と森林部では、空気中の酸素濃度に差はないようです。このことを考えると、森林の空気が美味しく感じられるのは、森林の空気を含めたまるごと全ての雰囲気がよいからと言えます。

                      人はよい雰囲気の中で生きていると、穏やかに暮らせ、幸せを感じられます。ですから、酸素の濃度の多い少ないに価値を置くのではなく、雰囲気をよくすることが大切なのです。

                      ところで、よい雰囲気とは、どういったものでしょう。

                      怒っている人。イラついている人。苦しんでいる人。人だけではありません。怒っている生きもの、イラついている生きもの、苦しんでいる生きもの。職場を含め、生活の場において、こういった人々や生きものたちが身の回りにいると、息苦しさを感じます。雰囲気が悪いのです。空気中の酸素濃度に関係ありません。

                      生活の場がよい雰囲気にあること。つまり、身の回りの生きものが苦しまないで生きていることが、穏やかに幸せに生きることに欠かせないということです。ほかからの影響を受けずに人は独りで生きられないのです。

                      ですから、自分の生活は自分だけで成り立っているのではないことを知り、あらゆる生きものが苦しまないように働きかけることが大切なのです。

                       

                      病気に罹ると苦しくて辛いものです。早く楽になりたい思いでいっぱいになります。あたりまえのことですが、生きものは、生きているから「いきもの」なのですから、精一杯生きることが生きものとしての使命なのです。痛みの感覚があるのも、生命の危険から逃れるためですし、苦味を感じるのも、毒のあるものを摂らないようにする感覚です。生きるための防御機能が生まれながらに備わっているのです。怪我をすれば、治ろうとしますし、身体にとって悪い菌が入ってくれば、退治しようとします。

                      薬は、身体に悪い影響を与えている物質の作用を弱めたり、身体の免疫力を高めたりして、生命維持の機能を助けてくれます。ですから、何も問題ないのに薬を摂取することは全く意味がないのです。もともとある生命力を更に高めようとすることは欲ですから、心の健康によくありません。もっと健康になりたい。もっと長生きしたい。若さを保ちたい。これらの欲で心が病みます。身体は確かにいまより良い状態になるでしょうけれど、心と身体のバランスが崩れ、結果的には、心と身体のバランスが取れている状態よりも寿命が縮まります。心と身体のバランスが取れている状態で死を迎えるまでが、その生命体における本来の寿命となります。

                      ところが、人は昔から長寿を望み、老化を防ぐため、さまざまな薬を合成し、服用してきました。でも、死から逃れた人はいません。生きていることは、いつかは死ぬということです。生と死は、生命がこの世に存在する間に起こる一つの現象に過ぎません。

                      この世に生まれて存在し死を迎える。生から死へ向かっているわけですから、必ず老います。生にも死にも老いにも、なんら特別な意味はありません。老いを止めれば、死なないことになりますが、それは生きていることにもならないのです。変化しないものは、この世に存在しません。

                      ですから、不老不死はかなわない夢だと知り、心と身体のバランスを最善に保つ生活をすることが大切なのです。

                       

                      以上のことを知って大切にしている人が、足るを知る人です。

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